「出会ったから何?」ていうか「出会うって表現自体大げさじゃないの?」と平気で言っていた様な気がする。しかし、わたしからすると、彼と出会ったからといって誰も居なかった過去が帳消しになるわけではない。きちんと、
むしろ出会ったからこそ、語らねばならない側面もあるとわたしは思っている。出会う前の無自覚時代と、出会った事に気づいた自覚の時代の心理的な変遷を書かなくちゃ・・・。
たとえば里親家庭に委託された子がいたとする。その子が里親家庭になじみ始めるとハネムーン期間を過ぎ、その子自身が少しずつ見え始める。その時から里親は「
捨てられた子の心」と向き合う事になっていく。
施設から迎えた時のシンプルな出会いは確かに喜ばしい事だけれど、本当にその子自身と出会う為には更なる試練が里親子の間にあるのだと思う。
虐待を受けた子は被虐の表現をし、
捨てられた子は
捨てられたままに生きてしまう、
捨てられた上にさらに施設などで虐待を受けたら、
捨てられた状態での虐待を再演しがち。わたしの場合は、この世に居ない感覚で生きていたらしい。
無愛着の自覚 わたしはWolfから「もうWolfと出会ったんだよ、
無愛着をやめなさい」と言われても、自覚してない以上ヤメようがなかった。彼が指摘する
無愛着という概念が無いので、指摘されている部分がどの部分かわからなかった。
しかしWolfの言っている事が全く理解できないまま、がんばれ!で施設時代の体験記を書いていたわたしをずっと応援してくれていたのがMariaだった。彼女と会うまではさらに時間を必要としたけれど、わたしとWolfがうまく意思疎通出来ない状態を心配してくれたのか、(自分で作ったサイトで二人で大喧嘩したり、彼やわたし自身の記事を削除したり・・・)ある日、メールをくれた。
それからずっと彼女と彼とわたしで、三人三様の心の整理をして生きている。ただしここで特筆すべき事は、わたし以外のソウルメイトふたりは、頭がめちゃくちゃ良いという点だ。わたしは、虐待故に記憶を失った人たちと、そもそも脳が発達せずおバカで記憶が弱い人では、問題が違うという事を知り、けっこう凹んだ。
でも、わたしは、確かに誰かにボンドする発想が育っていない事を自覚する様になっていった。
そんな時、Mariaはよくたしなめてくれた。「Wolfさんの戦いも孤独よ、自分をかえり見てる暇もないくらいに・・・」確かに彼女の言ってる事は、実際にわたし自身も彼を見ていて思う事であり、彼女の指摘にはさすがに心が揺らいでいった。
運命ではなく行政の不作為 わたしはひとりで生きる事が神に定められた運命のように感じていたが、それは社会福祉を勉強すれば、行政の不作為の問題でしかない事に気づいてしまう。わたしの場合は精神病の生物母がひとりいる事をもって親がいる子とされ、施設だけで育った。しかしそれでも生存が確認出来た親がいる為、子ども時代を家庭を知らずに施設だけで育った。
子ども手当を支給する親のない子ども達 しかし問題はそれだけじゃない、親から
捨てられて
乳児院で育ち、養護施設へ措置されてきた子ども達も、家庭を全く知らず、親の行方も不明な為、子ども手当を支給する事ができず、その結果、支給されない状態なのだ。
そして、施設は孤児院ではありませんと言いながら、確実に今年度においては5000人弱の子どもたちが、生物親が特定されないまま、子ども手当の対象外なのだ。
この、子ども手当の対象外=孤児なのだという認識をきちんと持つ必要がある。(#単純に子ども手当をよこせと言ってるのではなく、子ども手当が支給される為の親が居ない子ども達がいるという意味、定義の問題)
今回の、子ども手当が出ない子どもたちについても本当に考えさせられている。厚労省の資料にある、今年度の4800人の子ども達は親がいない為に、子ども手当が支給されないのだが、あまりにマイノリティな状態にあるためか、誰も、子ども手当が出ない子=親が居ないという発想になれない。
過日のNHKの、今まではあった人が最期に「
無縁社会」になる問題を問うならば、同時に考えてほしい、生まれた時より社会から
捨てられている無縁状態の
乳児院の子ども達の事を。
今は「孤児はいません」と言われる中、
捨てられ続けている子どもたちがいる事を・・・。この言葉により、
捨てられた子ども達を無援状態に置いたまま、居ないままに捨て去っている社会が今の社会だと。