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施設出身者らでつくる退所者支援組織「日向ぼっこ」が正式名

どうでもいいメモ

 当ブログ内関連記事 他の児童養護施設出身者たちの活動 で紹介した事があるグループ。でもまあ、それ以前に彼らは有名な方々で、メディアへの露出が顕著な施設出身者なので細かく説明せずともいいのかもしれない。
 
 施設出身者はけっこうスネに傷持つ人が多くて、人前にとても出られる状態じゃない子も多いので、顔を出して語れる施設出身者という存在自体希少。
  
 でもわたしは施設の子同士で集まる事に抵抗があるので彼らの集いに参加した事はない。わたしが何に関しても飲み込みが悪い人なので「児童養護施設退所者に『居場所』同じ境遇独りじゃない 」というスタンスメッセージを持っている彼らには、心理的な波長が一致しないのかもしれない。ま、これは自己都合なので・・・。
 
 でもこの新聞記事の題名の

 虐待児:受け皿や里親のあり方見直す厚労省専門委が発足

  受け皿というのは児童養護施設等(?)の事だけど、最初読んだ時は養護施設の事だと気付けなかった。里親のあり方を見直すんだなというイメージは強かったけれど。要は社会的養護のあり方を審議するという事だ。まあ新聞記事の題名にまでケチ付けても仕方ないけど・・・。

 この専門委員会に関連する記事は、エドワードブログの最新記事の 社会保障審議会児童部会社会的養護専門委員会への意見書  に出ているので、これから先は専門委員会へ格上げされた事による、本格的な審議が始まるので、しっかりと注視していきたい。

 少なくとも養護施設の改善だけでは家庭を体験した事のない子ども、捨てられた子どもの問題は解決されない。確かに施設の改善は必要ではあるけれど、それをもって社会に適応できる人間を育成できるかどうかは別のカテゴリの話になってしまう。それに子ども達は日々育ち、時間との勝負。
 
 ゆえに親が育てない子ども達を原則里親家庭へ!と発信し続ける。



    
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わたしは、養護施設は収容・拘禁施設という捉え方を持っている

コラム

 わたしは一度目の施設を脱走して、連れ戻され、その後の記憶があいまい。二度めの施設に至っては脱走の記憶すらないのに、誰もが過去のわたしが脱走騒ぎを起したと言う。(過去の自分探しにて)わたしは養護施設は収容施設というよりもさらに強い表現の拘禁施設というイメージをぬぐえない。

 養護施設から逃げ出す事を脱走という(又は>無駄 無断外泊)。わたしは養護施設がもし、子ども達が「家出した」と言ったら激怒するだろうけれど、さすがにその表現を使わないでくれて助かる。

 家庭で虐待を受け措置された子にとって施設での脱走は過激な「お試し行動」のようだ。職員の手を煩わせても自分に向かい合ってほしいと願う、家庭でネグレクトされたルサンチマンの行き着く先が、職員への投影。職員も、そのような子に対しては何故か熱血職員の顔を見せる。でも一方では・・・。

 だけどそんな暴力空間から逃げ出したい子どもにとっては、のどかなものじゃない。命を掛けて牢獄破りをしようとしているのに、結局連れ戻され、その先は記憶が欠落している。逃げ出したその先を覚えていない。結論が見えない映画を見せられても悶々とするばかり。こういう記憶の断片は好きではないが仕方ない。
 
 養護施設が暴力においてはハイリスクである事と拘禁施設でもある事に、何故、親から捨てられた要養護児童が付きあわせられるのかを問わなくてはわたしも、自分の心に納得いかない。

 一番裏切りたくないのは、過去の自分。そして親から捨てられてわけもわからずに拘禁されている子ども達。子どもたちには家庭が必要なのだ。懲罰や拘禁は必要ない。

 養護が必要な子に何故いつもいつも収容・拘禁・処罰が与えられるのか。要養護児童に本当に必要なものの本質は何なのか、大人たちに考えてもらいたい。親が育てられない子どもだから収容・拘禁されるのは「仕方ない」と考え、そこで思考が停止する状態を、他人の表現を使うなら「バカの壁」に当たるのではないかと思うし、その国の一般の人々の文化レベルをあらわすと思う。

 わたしは施設で全部育ち、家庭を知らないという事を伝えた時、ある人から「その事についてケアを受けましたか?」と言われ、自分を否定された気分になり激怒したことがある。でも今ならその人の、基本理念が理解できる。家庭で一度も愛を受ける事がないという事は、ケア対象なんだと・・・。

 いつか読者Aさんがどんな虞犯も保護対象にされるべき(云々)とおっしゃっていた気がするが、それなら、要養護児童が児童養護施設でプリズンブレイクを企てる気持ちを持つような精神的なプレッシャーを、誰が知る?

 「咎なくて死す

   by 柿本の人麻呂 」

 咎を何故受けねばならぬ、何故なのだ、そこからわたしの意識は始まっている。原罪という部分にも抵触しているので、考えなくてはならなかった。

 親がない子が何故収容施設にいるのだ。親が育てられない子には収容施設は必要ない。たった一人の大人から愛される事が必要なケアでありトリートメントなのだ・・・。捨てられた子が施設で全部育つ事は保護じゃない、拘禁だ。それを「助けられた子」と表現する事はわたしの感覚が許せない。

 親のない子にとっての本当の保護とは、あらゆる暴力空間から真の意味で助け出される事、そしてその空間から引き離し、修復とケアをじっくりと受ける事だ。

 それが判っていながら乗り出せない大人都合の利権の問題を考えるだに疲れる・・・。(ひとり言)
 

| └ コラム | 07時50分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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書く為の脳が安定しない時の猫的反射行動

くも


コラム

 最近は記事を書いても安定せず、書いて表示させては削除を繰り返している。これはブログを始めたばかりの頃の癖だったが、最近はこの行動は影をひそめていた。何にせよ、書く為の冷えた思考力をもう一度作り上げようと思う。

 心情吐露系はなるべくここ(戦記)では書かないと決めていながらもつい書いてしまった時は後味の悪い思いをする。自分の心を語るという事が言い訳がましいような気がして、自分で自分が嫌になる。その気持ちを無視してさらに書き続けるともやもやが膨らみ、今まではブログ削除へ至っていた。

 最近は他ブログのメンテや設置やそういう作業をする事で自分のブログ削除を回避していきた。猫は緊張状態がMAXになると自分の体をペロペロ舐めて、その緊張を和らげようとする。

 でも資料やデータに基いて意見を書く時は全く違う事にも気づいた。この間も、資料を使いながら記事を書いた時に、資料に力を得たような気持ちで文章を書く事ができた。自分の普段の戯言が真実の告知として認可されたような気分だった。でも資料に甘えてはいけないとも同時に思った。あくまで自分の文を書き続ける事が大事で、そうしてきた過去はムダではないと思っている。

 しかし、主観で書くにあたって、再び「言い訳がましい」気分になり、これは主観だとくり返し文中に挿入しても、自分の心が納得のいくものにはならない。悪い事をしていないのに反省文を書かされるような気分になっていく・・・。さて。こういう時は心を冷静に戻そう。

 自分の気持ちを書くこと、語ることを言い訳がましいとオートで変換してしまう自分の脳味噌を冷やさないと、おどおどして何も書けなくなっていく事はウェブ経験上わかっている。

 と、これまた現在の状況を言い訳しておこうと思った。


 それにしても、これは主観、これは言い訳、と内心でつぶやきながら書く文章なんて基本的に自分を一生懸命説得させているにすぎない。もっと脱皮が必要だ、冷えた頭でなくては思考と理性が伴わないし、それだけでは、思いを表現する事が難しい。わたしの文章には「感情」が感じられないかもしれないが、感情を文章化せずとも、感情を表せるようになれたらすごいなと思う。

 この親記事は消す事を前提にした記事を書かないようにとの自分への戒め。 

| └ コラム | 06時41分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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今、わたしは過去の育てられ方のしっぺ返しにあっている

くも2


コラム

 施設二世、三世という至りやすさ

 わたしは実は「捨てやすさ」についてはタイトロープだ。元々捨てられた自分という根幹から発する意識が、絆相手に対してさえも「切る期限」を常に探しあぐねている。

 そう・・・わたしには絆相手がいる。でも彼らにとって本当に何が大変かというと、たとえばWolfにとってはわたしの言葉を一つ一つ定義し直させる作業だと思う。彼は子どもを実際に育てているからこそ、自分にとっての通常が子どもを切り捨てる事になるという事が感じられるのだろう。

 休日や祝日には当然ながらケータイの電源を切っておく。休みの日にまでこちらに対応しなくちゃならない労力を減らしてあげたつもりで、わたしなりのマナーだった。それは出逢ってから今に至るまで、わたしは、やらなくちゃいけない最低限のマナーだと思ってる。休みの日にわたしにわずらわせられる必要はないだろうという考えだった。

 その代わり、平日になればきちんと電源を入れて対応できるのだから、わたしにとってはおかしくも何ともない。この態度で怒った人は過去において誰1人いなかった。夫に対しても「今必要な対応」をしているつもりだ。

 でも、そのように配慮しているというのに、WolfもMariaも怒る。このケンカで今週の前半は2人に一生懸命自分の気持ちを説明していた。でも彼らはいくら説明してもサラウンドで「おかしい」と言う。

 わたしは結婚しているけれど子どもがいない。子どもがもしいたらどんな風な子育てをしているか、想像できる部分もかなりある。子どもに対しては情というよりは、対処、応対的な気持ちになるだろうと考えている。
 
 子どもの求めに応じて必要を満たすとしても、衣食住の手配は常に怠らないけれど、子どもが「それ以上のぬくもり」「もとめ」を向けてきたら対応できなくなると思う。ネグレクトはいけないと理性でわかっているから最低限の事はするけれど、それは最低限のままであり続け、それ以上を求める子どもに困惑し続けるだろう。

 最近夫は「いじけても通じない人にはいじけない事にした」と言うようになった。でもWolfはそうはいかない。夫のように物分りはよくないので、常にわたしに対して怒りの再定義をさせる。

 彼は懇々と「祝日や休日だからといって、電源を切るのは職員といっしょだ」と怒る。わたしも反論する。「何故?あなたにとっての必要は満たしています」と。

 わたしは愛着に付随する「見えない求め」にはどう対処していいか判らない。

 わたしが「子どもにとってこれだけあれば充分でしょう?」と判断する基準が、どうも施設が提示しているものに非常に似ているような気がするし(過去の体験じゃなく、今施設に感じる体質)、一方、それでは足りないと騒ぐ「夫のような家庭育ち」に唖然としつつも、わたしは自分の本来の観念にもどろうとあせる。

 わたし本来の観念を突き詰めると、結局は養護施設の集団養育の場所に突き当たる。わたしが一番否定している世界は、わたしが一番馴染んでしまった世界だ。

 わたしは施設二世、三世を作らない為に考える必要を感じる。わたしが深い場所で「親はなくとも子は育つ」と思っている以上、子どもを作る事が出来ない気がする。

 リアル世界の子育てはネットの発信とは又違う。わたしはネットの発信とリアル世界の行動に著しい解離があるらしいので、この差が縮まるまではわたしは子どもを作り、捨てる事を視野に入れた子育てをしたくない、と、ふと思った。

#この考えはわたし固有の問題でもある為、施設で全部育てられた方が全て子どもを作れないという意味ではありません。あくまで主観です。


 

| └ コラム | 07時39分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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0才~18才までの継続施設の建設?

気になる記事CLIP

 又、施設の建設に前向きだという記事を見た、しかも今度は乳児院から養護施設まで「継続して養育する」為の施設の建設だそうだ。

 いくら誰も引き取りに来なければ施設という世界観に適応するからといってこれではあんまりでは・・・。という気分にさせられた。一度も家庭で育てられない子どもの問題を全く判っていない。右のサイドバーのブックマークにも登録しておいたが、今回は妙な恐怖心を覚えた記事なので、1部引用して気持ちを書いておく。

 

YOMIURIONLINE

 この日質問した小林祥子氏(公明)は2歳児が同施設に移ることについて、「甘えたい盛りに、慣れ親しんだ職員や子どもたちから引き離され、環境の異なる児童養護施設にたった1人ぼっちで移されることになる。その時受けたショックは計り知れない」と継続した受け入れ施設の建設を求めた。

 【全文記事



 いかにも物分りの良さげな言葉が並ぶこの記事。でもわたしは文章を読んでいると妙な汗が出てくる。要養護児童を将来養護施設へ措置する事をまず優先・前提としている気配がうかがえる。言葉は悪いが施設業界の要養護児童丸抱えを目指しているように感じてならない。1人も施設から出さないぞという意思表示の1つにも見える(主観です)

 今までも里親制度よりも施設的養護を優先させてきた弊害にフタをし、資料が出ても圧力をかけ、退所後の追跡調査のデータも取らず(昭和の初め頃はとっていたらしいが・・・)施設病という問題もフタをし・・・。

 今度はその環境を乳児は受け入れてしまうという現実を逆手にとり、せっかく馴染んだ職員との別れという部分にあえて焦点を絞る発言。だからそれを受けて当然わたしは「でもこの馴染んだ職員も数年後にはやめていく」現実を語るだけ。だってわたしは数え切れない別れに慣れてしまった。

 甘えたいさかりに必要なのは養護施設じゃなく里親家庭、たった一人の居なくならない大人との固定された愛着関係だ。子どもは建物に愛着を持つのじゃなく、たった一人の自分だけの大人に愛着を持つのだ。去っていく大人(退職、配置転換、担当替え、その他)に愛着をボンドするほど子どもの心は甘くない。

 この記事で『継続』と言っている範囲は建物が同じという事でしかない。常に大人も子どもも変わりゆく非継続な関わりの根本的問題は解決されていない。もちろん虞犯少年問題、児童間暴力の問題、職員からの暴力の問題、愛着の問題も常にある。養護施設では中学生の少年達は幼児をおもちゃとしてしか扱わなかった(後輩・談)、今度は乳児が危険にさらされる恐れが当然出てくる。分割されていた部分が共棲するようになればどんな事が起こるか判らない。

 乳児院から養護施設の継続養育、それは「継続」という言葉を用いながら少しも人間関係においては継続していない。でも普通に文章を読むと、新聞記事をすんなりと受け入れてしまう。そういうものかと思ってしまう。この公明党の人も、施設関係者の紋切り型のの説明をそのまま鵜呑みにして語っているフシがある。
 
 愛着や発達心理学や集団養育論やなどの視点を持っていない。なのに一応の発言力のある人だから記事になる。

 こういう視点は施設で育った者だから敏感になりえる。

 生後遅くても3カ月以内には里親家庭へ委託されてほしい。そして居なくならない大人、自分だけの大人、兄弟関係、空間、を子ども達がアクセスできるようにと願ってやまない。

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|  気になる記事のCLIP2007 | 03時25分 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑

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でも養護施設は家族・家庭じゃないと言い続ける

スタンス

 ある記事を下書きモードにした。所謂大人の都合というやつで公開は困るという人々の強いプレッシャーなどもある為。わたしにお知らせ下さった方々へは個別に謝罪とお願いに向えたけど、ウェブ上で面識のない不特定の方がブックマーク機能を使って収集した場合は追い切れず・・・。

 普段は「主観」といちいち断りを入れながら何年も何年も記事を書いてきた。1施設育ちの言葉として、これは自分の感じ方だと言い訳しながら何も書かないよりはマシと思いながら書いてきた。

 でも、わたしの記事は色々な措置理由の子や送致された子や所謂当事者の方々を不快にさせ、時々、航空母艦からやってくる戦闘爆撃機の飛来のように、誹謗中傷コメントを残しては消えていった。

 これ、ヤフー時代からずっとだった。それでも、主観と言い訳しながらも記憶がないので妄想と言われようが、たかが1施設育ちの文言が何の影響も与えない事を知っている人々から揶揄されようが、施設はこういう場所だと書き続けてきた。

 職員が誰も書かない(わたしは見た事がない)「虞犯少年問題」「被虐待児問題」「要養護児童問題」などが混合収容されている事の問題点をMariaと共に書いてきた。

 自分自身は別にどう思われても構わない。でも絶対に許せなかったのは「養護施設を家族・家庭」と呼ぶことだった。少なくとも要養護児童にとっては、親から捨てられた事実と施設入所と施設で育ち切る事をきちんとリンクさせて、自分は捨てられたのだと理性で理解するには、どうしても必要な考え方のフローチャートがあると信じてここまで書いてきた。そこをわたしははっきりさせないと施設は家庭幻想の中生きる事になったから。

 養護施設を大きな家族と定義すれば、わたしはきっと子どもをいつか養護施設へ入れてしまう・・・。それを許さない為に施設で全部育てられた要養護児童である自分の過去を否定した。 それは子捨ての連鎖をしない為だった。

 今回、1つの記事に飛びついたわたしも心がどこか弱かった。ついうれしくて・・・。関係者の方々申し訳ございません。もちろん自分の言葉でこれからも書いてゆく。でも、第三者の冷静な視点が本当に欲しい時もあったと自覚してしまった。

 ヒートしたり、冷ややかになりながらも自分の気持ちを書いてきた。でも「心情吐露じゃなくて、本当の事を書かないと信じてもらえないよね」などと裏で言う人もいて、とてもとても悔しかった。この感じ方は、わたしの体験的記憶に基いてなくとも、わたしにとっての真実だった。

 だから今回の事は、わたしの勇み足だけれど、わたしの感じ方は間違っていないと確信した。わたしは人に評価は求めないが、全くの第三者が冷静に見た施設世界とわたしの主観が一致したという点で、とても勇気を貰った。

 ひと時の夢を見たけれど、又自分の言葉で書き続ける。施設育ちだけでもマイノリティなのに、その施設の中でも更にマイノリティ、だから書き続ける。
 

| └ スタンス | 05時52分 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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誰が自分の今の相手かを定めること、今、その瞬間に対応すること

コラム

 これはメモ


 今は少なくとも誰が自分の相手かを常に定める必要がある。いつも変わりゆく相手だから、今、誰が自分と関わっているのかをしっかりと認識しておく必要がある。せめて名前と顔は一致させる。

 でも次には又、新しい人間との接点を持つようになるので、その時期に備えて今の相手に対して気持ちを残す事のないよう、飛ぶ鳥後を濁さずの精神で引き際を考えつつ、今を過ごさねばならない。

 スラスラと暗唱できるほどに身に付いている感覚。

 今の人に失礼があってはならないと思う、確かに。今の相手に真剣に心から向かい合っている事を示す為には愛嬌も必要だと知っている。今の関係を良好に保つ為には、最後の日には「ありがとう」と言ってもらえる関係性を作るため、愛想を持つ事は必要だと知っている。

 たとえ、行き違いなどがあり禍根があろうとも終わりよければすべて良しなのだ。

 大人のわたしは、その愛想の部分をやめているので、愛想を持った仮面の下の本音の部分だけが文章化されているのだと思う。こういう感覚は、大勢の人が入れ替わり立ち代り現れる事を基礎とした考えなのだろうと思う。

 無愛着の子はぬくもりに質や固定されたものを求めないと思う。抱きしめられることは必ずしもぬくもりと一致しない感覚を持っている自分としては、他人の肌は暖房器具にもならない。

 無愛着と愛着障害児は現れ方が似ているようであり、根本の部分が全く違うように感じる。愛着障害児はわたしから見たらものすごくウェットだ。ある特定の人をストーキングしたり、自分を見てもらう為に嘘をついたり、見捨てられ不安があったり、仮病を使ったり、ありとあらゆる手法で、この大人は信じられるかどうかを試す。

 でも無愛着は、他人を必要としない。

 ふと気付いたら試す相手はおろか、誰もいない集団の中で、誰からも相手にされるような人間(誰も引き取りに来なかった、捨てられた事実やら)ではない事を受け入れ、かかわりの一切がオートメーション化されていて、その中の既製品として世に送り出されるだけの施設製品と感じる。
 
 わたしを無愛着と、わざわざ愛着障害児と分けて仮診断したWolfは実は凄い人なんじゃないかと思う。わたしを愛着障害児だと思うと、心が怒りでおかしくなるような気がする。誰もいない人生を勝手に歩ませて、誰とも関わらせなかったくせに、愛着障害児になるもんか!と。

 わたしは、せめてぬくもり乞食だったら何か違ったのかもしれない。愛着障害児や苦悩する見捨てられ不安の心を持つ人が時々まぶしく見える。人が当然得る筈だったものを知っている人の怒り見ると、何故自分はそういう形で嘆けないんだろうと思う。

 自分ってモノトーンだなあっと。まあいいかとも思うが。


 

| └ コラム | 07時34分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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自らの加害性を文章化する作業と自分への処罰感情

コラム

 わたしは自分が自分の加害性を意識し続けた歴史は長く、施設にいた時代にはすでに恐ろしさを感じていたようだ。そうでなければ高校時代に懺悔日記という題名の抽象的絵画のような日記を書いたりしないと思っている。
 
 何に対する懺悔なのか知らないけれど、数年前その日記を公開したら他の人から全文コピペされ、それを知り合いの精神科医に見せる(見せた?)と報告を受けて、結果的にウェブ上から削除してしまった。でもオフラインで時々読むと、謝罪ばかりをしているので、何をしたんだろうという不安がたえずよぎっていた。

 そんな気持ちのまま、当時は「しつけ」などを施設で受け体験記などを書いていたが、同時に懺悔日記を内面にチクチク意識してしまい、どんな体罰やしつけや殴られた話を書いても、とうてい懺悔日記の心境に近づけないと思った。そしてだんだん書けなくなった。

 わたしも厳しいだろうしつけは受けたけれど(幾つかの体罰の記憶などで)でも同時に自分の断片の記憶といえば殴ってしまった事や、幼児を屋上に連れていき性的な暴行をしそうになった事など加害性を持つものばかり。

 その時は止める事ができたが、このような自分の性癖?について恐ろしく思い、どうしても子ども全般に近づきたくないという事、それらが現在の家庭生活にまで影響しているにも関わらず結婚してしまった。つまり問題が自覚化されていなかった。

 そのため、昔「虐待を受けてない施設出身者」とネット上で言い放ち、他の虐待を受けた施設出身者の一部の方を大変怒らせてしまったし、その上、加害の体験を書いた事でさらにその方々に追い討ちをかけてしまった感がある。

 でも加害体験を書く事は施設という暴力性のリスクの高い場所では当然起こり得る事として、自分の場合はかなり冷静に気持ちを書く事ができた。

 もちろん暴力性のリスクの高い場所だから暴力を起しても仕方ないという諦観の意味ではなく、その集団生活の中で知らずにコピーしてしまう世界観に、自分自身恐れている。#当時のわたしからの被害者が出てきたら当然加筆します、どんな内容でも。

 でも同時にわたしは、丁度被害を受けた部分の記憶はないのだ。被害と加害が表裏一体だとして、個人によりどちらかが記憶に残り、どちらかは残らないという事があるのかもしれないと思った。でもわたしは今も虐待を受けたという気分がどこに感じられない。

 加害だけを覚えている為、耳に優しい自分を抱きしめる言葉を蹴りつけながら加害性だけを意識してしまう気持ちは今もブラックボックスだ。Wolfはわたしを虐待を受けた事があるかもしれないと言っている。わたしにはその言葉は、自分の加害性を意識するよりも近づき辛い考えだ・・・。自分のフライトレコーダーもボイスレコーダーも見つけていないから仕方ないが、長い道程だ。

 そして「処罰感情」という言い方にもワナが潜んでいると思う。自分がやった加害をごまかさず、やった事を記憶しているならその部分をそのまま語る必要を覚える。

 「処罰感情に当たる部分」があるとしたら、それ以上は現時点では考える必要のない事まで自分を処罰しようとする意識を持ちすぎるとエスカレートする時があった。今は判らない部分は今は判らない、でも可能性は残っている。わたしはそのような感じで過去へ向っている。

 という事に何となく気づいた。

 追記

 言葉が定まらなくてかなり書き換えました。最初の時点で拍手を下さった方々、すみません(汗)削除した文章も心の中にありますが、最終的にこのようになりました。





| └ コラム | 06時38分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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わたしも職員が子ども一人一人に向き合えば良いんだと思い込まされていた

養護施設にいる間の問題

 わたしの措置カテゴリは要養護児童だ。要養護児童は施設以外の子ども時代を体験した事がないので、すべては養護施設内だけの情報をかき集めて、よりよい環境になるにはどうしたら良いだろうと考えさせられていた。

・子ども自治と称して、施設が良くなる為の会議を子どもに開かせる
・自分のどこが悪いのかを延々と反省文を書かされる
・自分が集団に溶け込めない理由を考え続けさせられる
・不良が怖いと思っても、立ち向かえといわれるときがある。(薄ら記憶)

 これらは全ては、施設側が常に「原因を子ども達自身へ求めている為」いつまで経っても「要養護児童の養護施設措置というシステム的な問題」へ思考がたどり着けない。
 
 施設内の集団同士の譲り合いで、多少は浅く解決しても、親がいないという根本的な解決には至れない。職員一人一人が向かい合ってさえ解決できない問題があるのだ。

 こんな猫ダマシのような育てられ方をすれば、大人になった一部の施設体験当事者たちがこうなるのもわかる気もする。
 
 職員が子ども一人一人に向き合うシステムへ移行しても家庭にならない。実質的には子どもが何人に対して何人の職員が配置されれば無愛着の問題、家庭を知らない問題、親から捨てられた現実がクリアできると思ってるのだろう。

 施設はどれほど高機能になっても家庭にはなりえない。
 
  わたしも、結婚して愛着障害・無愛着の問題に行き着くまではこの問題の傾向がわからなかった。今もわかったとは言い難いが昔よりはマシになったと思う。絆づくり、結婚などを経て、自分がおかしいと彼らから言われる度に、真面目だった自分が否定される事は耐え難かった、確かに。

 だからずっと職員が向き合わないから子どもが虚無を抱えるんだと思い込んでいた。でもそれは違うのだ。そう思わないと施設でまっすぐ生きた自分が否定されると思っていたのだ。でも過去の自分を否定しなきゃ人と愛着なんか作れない。

 あの頃、養護施設が住み良い環境になるっていうのは実際どういう事かを、何故考える事ができなかったのだろう。養護施設にとって子どもが住みよい環境というのは大人の側の押し付けだったのだ。所詮は職員が子ども個別に関わりを求めずにすむように、管理しやすい環境を、住み良い、より良い施設環境というものにすり替えただけの事だ。

 子ども側に答えが出るはずがない。子どもは子どもとしての本能に基いて育とうとしているだけなのだから、養護施設の管理システムに合うわけもない。

 特に要養護児童については親から捨てられたという問題を抱えているのに、集団生活にそった身の処し方を人生の初めから教え込む事が正しいとは感じられない。

 もしわたしが一億近くも掛けて育てられて、今、愛着を誰に対しても持てて、愛される事や受け入れて貰えている事への安心を知っていて、それを自分の子へ繋げたいと思えているなら別だけど、わたしは夫から「ここは施設じゃない」と言われている。

 養護施設全部で育つ事は遅延性の爆弾を背中にくっつけられて世の中へ捨てられる事だと思う。わたしは養護施設当事者とはあまり言いたくない、まるで、支配する側の言葉のように感じられる。わたしは養護施設全部育ちだとしか言えない。

 当事者という言葉でボケていく事があるから、わたしは、養護施設全部育ちとしてこれからも、親が育てない子を里親家庭へ!といい続ける。

|  養護施設にいる間の問題 | 08時56分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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