2008年07月31日
施設の子の生き方は雑草根性じゃなくエアプランツのようなもの
誰かを救いたい大人となっている子たち
| 送信者 Mariaのストリート通信 |
彼女が付き合った人は、職種を問わず、延々と警察官、ガードマン、陸上自衛隊、海上自衛隊、SPを目指している人、山岳救助隊、はては、探偵、様々な人と付き合ってたそうだ。彼女はそういう、人の命を救う人に惹かれてやまなかったらしい。彼女自身の何かが「救助する人」というキーワードに反応するのも知れない。彼女自身はその道に向かえないけれど、そのような仕事をしている人を支えたい、そういう仕事をする人の安全基地になりたいと言っていた。
でも結婚したのは、人の救助とは何ら関係ない人だった。わたしは彼女に、その事についての質問はできなかった。
その一方で、看護師の道を選び、自らが救助者として生きる道を選択する人もいた。わたしは彼女らを見ていて、施設育ちの心の中にある、本当は養護施設で全部育った事は「救助」とは言いきれない面を目の当たりにした気分だった。
彼女は、延々と人を救わずに居られないように見えた。わたしは、生きられない奴は生きられないんだとずっとはき捨ててた。その時、看護師として現場で現実を見ていた彼女は、黙って目をふせていた。これを書いていて、あの目の伏せ方はそうだったんだと気付く・・・。
保護された子たちのその後
わたしは散々「保護」されたと言われてきた。施設に入れない子がいる中で保護されて安全を手に入れたと大人【当時の職員】たちから怒りを向けられたと想像している。
でも、彼女らを見ていてわたしもやはり、救助、保護、助け、救い、祈り、などなどのキーワード未満に思いを託す小さな捨てられた子どもたちの姿が見えるようで、とてもとても悲しくなる事があった。
でも最初は、彼女らがどうして「救助者」に惹かれるのかの理由を確かにわたしも、かつて保護された児童だから・・・と思おうとしたけれど。でも、わたしの感覚はそれを許さない気がした。浮かばれない魂があるから、尚も誰かを救い続けようとする事もあるのではないかと・・・。
救われた筈なのに救い続ける道を選ばずにいられない衝動を持つ他者の姿を見て、今でも時々焦燥感と言いきれない心理的重力を感じる。
そんな風に、ジトーッと、小さな子が真に救われるとはなんぞや?と考えている時に
まず当然安全帯域にいる夫が「ごはんまだ?」と、のほほんと聞いてくる時、無意識のチャンネルを切り替えなくちゃいけなくて我に帰る。
それでも、夫を見ていると、何か一つの答えを見つけた気がする。誰も居ない一生懸命すぎる施設の子の観念的なもの、思想的なものが、過去に子どもとして当然のように獲得してきたモノを前にすると、施設の子のハリボテのような強さも風前のともしびのように感じられて・・・これもまた心もとなくなる。本当に強いのは権利を身に付けている夫なのかも・・・。
施設の子は雑草じゃなくて、むしろエアプランツ
親から捨てられた子を「雑草のようにたくましい」と表現される事が多いけれど、わたしはそれはどうかな?と思う。施設の子は大地に根を下ろせないから、どっちかというと「エアプランツ」じゃないかと思う。つまり空気中の水分だけで生きてる緑の植物なんだけれどね・・・。根を下ろす場所がないというカンジなのだ。
家庭で夫が身に付けた彼が当然とする権利を、懸命に勝ち取らなくちゃいけない施設の子ども達。わたしはもちろん妻として彼にできる限りの事を提供したいけれど・・・、ノウハウ以上の、もっと気持ちの部分で伝えることに困難を覚える。
救われて尚、救助、救い、に気持ちが止まらないという事、たんに人助けが好きなだけなのか?と自問自答してしまう。サラリーマンは穏やかでいいけれど緊張感がいまいちと感じる。そして支えがいがないと思ったり・・・。わたしも変な奴だ。
こういう種類の事も整理しといた方がいいと思ったので書いておこう。
追記
Mariaに至っては、
「Leiちゃん、水草よ、川に流れていくのよ」
「いえ、浮き草よ!」
と、互いに「根の無さそうな草の選定」に余念がなく・・・それもまたそれで、なんと言うか・・・。
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