Firedragon戦記/絆なき者の記録

元・児童養護施設内マイノリティの自己主張ブログ

2008年06月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年08月

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施設の子の生き方は雑草根性じゃなくエアプランツのようなもの

メンタル整理

 誰かを救いたい大人となっている子たち

送信者 Mariaのストリート通信


 彼女が付き合った人は、職種を問わず、延々と警察官、ガードマン、陸上自衛隊、海上自衛隊、SPを目指している人、山岳救助隊、はては、探偵、様々な人と付き合ってたそうだ。彼女はそういう、人の命を救う人に惹かれてやまなかったらしい。彼女自身の何かが「救助する人」というキーワードに反応するのも知れない。彼女自身はその道に向かえないけれど、そのような仕事をしている人を支えたい、そういう仕事をする人の安全基地になりたいと言っていた。

 でも結婚したのは、人の救助とは何ら関係ない人だった。わたしは彼女に、その事についての質問はできなかった。

 その一方で、看護師の道を選び、自らが救助者として生きる道を選択する人もいた。わたしは彼女らを見ていて、施設育ちの心の中にある、本当は養護施設で全部育った事は「救助」とは言いきれない面を目の当たりにした気分だった。

 彼女は、延々と人を救わずに居られないように見えた。わたしは、生きられない奴は生きられないんだとずっとはき捨ててた。その時、看護師として現場で現実を見ていた彼女は、黙って目をふせていた。これを書いていて、あの目の伏せ方はそうだったんだと気付く・・・。

 保護された子たちのその後

 わたしは散々「保護」されたと言われてきた。施設に入れない子がいる中で保護されて安全を手に入れたと大人【当時の職員】たちから怒りを向けられたと想像している。

 でも、彼女らを見ていてわたしもやはり、救助、保護、助け、救い、祈り、などなどのキーワード未満に思いを託す小さな捨てられた子どもたちの姿が見えるようで、とてもとても悲しくなる事があった。

 でも最初は、彼女らがどうして「救助者」に惹かれるのかの理由を確かにわたしも、かつて保護された児童だから・・・と思おうとしたけれど。でも、わたしの感覚はそれを許さない気がした。浮かばれない魂があるから、尚も誰かを救い続けようとする事もあるのではないかと・・・。

 救われた筈なのに救い続ける道を選ばずにいられない衝動を持つ他者の姿を見て、今でも時々焦燥感と言いきれない心理的重力を感じる。
 
 そんな風に、ジトーッと、小さな子が真に救われるとはなんぞや?と考えている時に

 まず当然安全帯域にいる夫が「ごはんまだ?」と、のほほんと聞いてくる時、無意識のチャンネルを切り替えなくちゃいけなくて我に帰る。

 それでも、夫を見ていると、何か一つの答えを見つけた気がする。誰も居ない一生懸命すぎる施設の子の観念的なもの、思想的なものが、過去に子どもとして当然のように獲得してきたモノを前にすると、施設の子のハリボテのような強さも風前のともしびのように感じられて・・・これもまた心もとなくなる。本当に強いのは権利を身に付けている夫なのかも・・・。

 施設の子は雑草じゃなくて、むしろエアプランツ

 親から捨てられた子を「雑草のようにたくましい」と表現される事が多いけれど、わたしはそれはどうかな?と思う。施設の子は大地に根を下ろせないから、どっちかというと「エアプランツ」じゃないかと思う。つまり空気中の水分だけで生きてる緑の植物なんだけれどね・・・。根を下ろす場所がないというカンジなのだ。

 家庭で夫が身に付けた彼が当然とする権利を、懸命に勝ち取らなくちゃいけない施設の子ども達。わたしはもちろん妻として彼にできる限りの事を提供したいけれど・・・、ノウハウ以上の、もっと気持ちの部分で伝えることに困難を覚える。

 救われて尚、救助、救い、に気持ちが止まらないという事、たんに人助けが好きなだけなのか?と自問自答してしまう。サラリーマンは穏やかでいいけれど緊張感がいまいちと感じる。そして支えがいがないと思ったり・・・。わたしも変な奴だ。

 こういう種類の事も整理しといた方がいいと思ったので書いておこう。

 追記

 Mariaに至っては、

 「Leiちゃん、水草よ、川に流れていくのよ」
 
 「いえ、浮き草よ!」
 
 と、互いに「根の無さそうな草の選定」に余念がなく・・・それもまたそれで、なんと言うか・・・。
  

| ├ メンタル整理 | 17:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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施設育ちが「とても濃い家族主義、一族主義」の中で生きるという事

施設を出てからの問題?

お盆が近づく今だから、農家の?嫁としてドキドキする時間

 夫の家族主義はすごい

 わたしは、夫が生家へ戻った時に彼を育てた家庭と農村と姑の濃い家庭の相関図を見ている状況。こうなると年季が入りすぎているので【農家というものの時間がストップしている?】都会の核家族とは違うようだけれど・・・。

 興味深い家庭育ちの姑

 彼女は「自分の血縁なら、どれほど悪い事をしても、よっぽどの理由があったと思う」が「他人が何か悪い事をしたら、やっぱり他人は理解できない」と言う。

 わたしは「夫婦などのような契約に基づいた家族、あるいは、血縁に基づいた家族」どちらについても淡い幻想はいだいておらず、姑の「家族・一族ならば何でもOK」な感覚にびっくりする。

 ところが姑は家族に淡い幻想をいだいてるわけじゃない。彼女らはこの血筋を残す為の、種が生き残る為のサバイブの意識があるのだろうと思う。「水飲み百姓」と自分をこきおろしながらも、孫を待ち望む。それを当たり前と思えない嫁、ただ、その対立でしかない。

 親孝行について

 姑はわたしが生物学的親の親孝行をしない事に怒りと不信と困惑をおぼえている。わたしが「育ててもらってない親に思いはない」と言っても通じる相手じゃない。

 なんと言ったらいいのか、理屈を通そうとすると理屈が空回りする。「農家の長男と結婚したという事がどういう意味か判るか?」と言われても、すでに農家で食ってるわけじゃない夫を見て「ふ〜ん」程度。夫本人も「さやえんどう」と「スナックビーンズ」の区別が付かない。【品種が違うみたい】。でも本人悩まず。

 「農家の息子が情けないねえ」と言われてもヘラヘラ曖昧な笑い。

 わたしの目に映る「濃い家族」を理解しようとすればするほど、理論で考えれば考えるほど迷路にはまりこむ気分だ。

 そんなわたしがつい「横溝正史だっけ?」の小説を色々思い出し、外界から閉ざされた農村などの風景の中に、ごく自然に家族の忌まわしさとか、そういうものを連想してしまったが、夫はむしろ、そういう環境によって、外界の割り切った他人視点の世界観から守られていると思ってるらしい事も感じた。

 わたしは、急転直下の世界観の移行を迫られている。

 わたしが生まれて初めて接した「家庭」はどこか怖い・・・養護施設だけで育ったファンタジーのない世界から、農村だけで育った事で失礼な外界から守られたという、家族【幻想】だけを支えにしている、一族の結束だけを求める世界。

 不思議でおどろおどろしいし、割り切りたくない人々。客観性を持ち込んだら殺意を持たれそうな勢い、わたしは一体どんな世界へ、足を踏み入れたのか・・・と思う。

 わたしは実はすごい因習と風習にカテゴライズされている地域の農村に嫁いだので、元々はクリスチャンの自分の視点が、どうしてもこの世界観に驚き、いつまでも海外からのお客人の意識を超えられないのかもしれないと思った。

 ★これは婚家への批判でも何でもなく、本当にこれはこれで単なるわたしのイメージング。閉ざされた世界が、収容施設しか知らない自分が、今度は、農村部の犬神風な世界観を彷彿とさせる場面を見てしまったというところだろうか・・・。

 風習を因習と言うなと怒られる

 大事にしてきた風習をわたしが勝手に因習と言ってはいけない。そうか、あんなに変なことしてても、風習なのか・・・。ねえ、夫よ。霊スポットのたぐいは信じないくせに、すでに先祖の霊がいる事を前提としたこの、先祖の霊へのフレンドリーな対応をどう理解しろと??

 まあ、これは。
 
 感想、と思ってほしい。
 お盆が近づくと、最近、色々考えてしまう施設育ちなのだ。 
 

|  養護施設を出てからの問題 | 08:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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里親家庭が「ホーム」という名称を使う事に過剰反応した事について

メンタル整理

 施設全部育ちマイノリティが一般的なキーワードに、施設がらみの、どうしても反応せずにいられない、ある傾向の印象を持ってしまう事などについて書かせてもらいたい。

 個人的な気がかりでしかないけれど、しかも自分が出た施設は「学園」という名称だったので「ホーム」に反応するのはおかしいけれど・・・。

 かなり前にファミリーホームを開いている専門里親さんとやりとりした。その際彼から「ホーム」といえば施設を思い浮かべるのが、まるでおかしいかのように表現されていたのを受けて悶々と納得できない気持ちを持っていた。#ほんとはそのやりとりを読まなくちゃいけないんだけど、彼の文章にはもう触れたくないので読む気がおきない。

 養護施設全部育ちが「ホーム」というコトバから「養護施設しか想像できないのは、ほんとうにおかしいんだろうか?」と思わずにいられない。「学園」という呼び方の高等学校や専門学校があるけどとても苦手だ。養護施設のイメージがあるから。
  
 ホームというキーワードが養護施設施設を想起させるという印象を語る事を、ファミリーホームに対して無知な人の印象でしかないと決め付けられた事も個人的には釈然としない。印象や抽象を語るからといって、何もすべて不勉強なわけではない。わたしが知る「ホーム」は、それだけコトバとリアルが乖離しているのだ。

 里親家庭が「ホーム」と名乗るのは、まあ別にわたしがごちゃごちゃいう問題じゃないけれど、ただ、里親【専門里親】さんともあろうものが、施設を思い浮かべるからホームという表現に反応してしまう事を責めるのはどういう了見だ?と怒りが沸々・・・。もし施設で虐待受けたり、施設が嫌いで過剰に反応する子が委託されたら、どうするのか?

 あれから自分が本当におかしいのか、と人知れず悩んでいたが、シドさんが犬猫の里親名称についてもあれほどこだわっているのを考えると、やっぱりこだわるべきだとおもった。

 単なる名称かもしれないけれど、それに対して反応すること、過剰であろうがそうでなかろうが、やはり養護施設をイメージさせるキーワードに反応していしまう人がいる事、または子どものように不安定になってしまう事を、小ばかにしたような里親の心理を理解できそうにない。

 わたしは周囲から「お前はおかしいと思われたくなかった」から、この間も会話を回避してしまったのだと思う・・・。ホームや学園や先生など・・・単なる名称の問題かも知れないけれど、その呼び方以上の感じ方を持っているマイノリティがいるって事を言うべきだった。

 里親家庭なのに「○○ホームの子」と呼ばれる子ども達の心情に心が合わさってしまった。【冷静に考えれば、全ての子が施設から委託されるわけじゃないが】だかからわたしは「ホーム」という名称にこだわった。

 わたしは一度でも「○○学園」の子じゃなくて「○○家の子」として呼ばれてみたら、世界が又違って見えたように思うので、里親家庭でありながら施設の匂いがするファミリー・ホームにわたしなりにはショックを受けたのだと思う。

 ただ、○○ホームのような【施設でも手に負えない虐待の子たちの、傷の癒しの場】形式がいわゆる里親家庭としての主流、あるいはそういう形式だけが里親として認知され行くとしたら・・・と思うと、とても不安だったのだ・・・。何故ならわたしは、乳幼児が育つ為の養育里親家庭での生活について語りたかったのだと知ったから・・・。

 まだ、色のついていない乳児が迎えられる里親家庭としては、虐待受けた子や虞犯少年の傷の癒しのホームじゃなく、本当にささやかな一般の養育家庭で、1人の子どもとして育ってほしい。それがわたしの望みだと思った。

 わたしは、もう、園の子、ホームの子と呼ばれるのはコリゴリな施設育ちなのだ。
 

| ├ メンタル整理 | 16:48 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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すっぱいブドウ:施設全部育ちにとっての「里親家庭」とは

養護施設にいる間の問題

 何となく判る気がする。
 無かった者は「施設の塀の中にいたがる」のだと・・・。

 里親さんとの邂逅を経て、自分だけの大人になってくれる世界など考えた事もない。塀の中で生き、塀の外へ逃げようものなら脱走犯で捕まる世界にいた。

 大人になって、わたしが直接会った施設出身者全部育ちは「家庭という世界を知りたがっていない」と感じた。#それは家庭虐待の措置の子の事じゃなくて全てを施設で育った子たち。

 大人になってから、薄らぼんやりと他の人には家族がいる事に気付き始めても、誰も無かった自分を納得させたいから、目の前にチラつかされた家庭を手に入れようとはしない。

 施設で育ってよかったんだ、施設が無かったら死んでたんだ、施設で育って誇りに思う、施設で育ったからこそ逆境に耐える力を手に入れた・・・と思う事で、そんな必死な状況じゃなくて、もっとよりよい世界があったかもしれない事を否定する。

 ちなみに家庭虐待の子は「逆境に耐えうる力を手に入れた」なんて表現はしない。施設職員から相手にしてもらったと思っているので、違う表現になっている子が目立った。たとえば「俺の為に職員が本気で叱ってくれた」とか・・・。1人で生きてる施設全部育ちとは違う印象の言葉だ。

 わたしは里親さんを勝手に応援する時、逃げながら応援しているようなものだ。わたしは施設時代のけん制の雰囲気を身に纏いながら応援するものだかっらいつも殺気立ってしまう。もっと満ち足りた人として応援できればいいのに・・・と自己反省中。
 
 でもこうしてテキスト化できるうちはまだいい、またはテキスト化できるようになれば少しはストレスが軽減された状況だと思う。

 自分の結婚した家庭を振り返ってみれば、主婦として最低必要な事はしていると夫に言ってしまう。夫は「だから?」と返してくる。わたしのこの感覚はどこか施設の最低基準に似てなくもない。きっと彼は、必要最低限の対応を求めてるんじゃなく、もっと違う何かを求めてるんじゃないかと思う。

 ・・・

 これについてはMariaが「すっぱいブドウの理論」とか言っていた。検索すれば出てくると言うんだけど・・・。何となく耳が痛そうな感じがするな・・・。

 施設全部育ちが里親制度を応援する事は、けっこうシビアな選択なのかもしれないと今頃気付いた。でも、そこは大人の理性で乗り切らなくちゃいけないんだけど・・・ソウルメイトに甚だしい迷惑を掛けてしまった。

 やや反省文

 わたしの話を真剣に聞こうとしてくれる人へ怒りが向かうのは良くない姿勢だと思う。聞いてもらえる事をむだに消費せず自分の糧として捉える必要がある、得がたい体験を生かす必要がある。誰もが相談者と出会えるわけじゃない。

 そしてその認知が生きる知恵に繋がる・・・。そう、そう、だから驚いてはいけない、今、わたしには特定の相手として名乗ってくれている奇特な人がいるのだから。驚きすぎず、まずは現状認識。

 

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|  養護施設にいる間の問題 | 09:15 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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「小さい子と中途半端に関わったらだめ」の意味が判る事

養護施設の問題

 保母さんのマネごと

 高校時代に施設にいて、小さい子たちの小さいお姉さんとして生活していた事。あれはあれで最近は少しずつ語れるようになってきた・・・ただ、語りやすくはない。だって小さい子たちの事だから・・・。

 わたしの中に残ってない子ども達。いつも複数でいつもがやがやとしてて可愛い子ども達だった。でも、わたしは「子ども達」という表現を使いたくないから、高校時代にちょっと触れ合った子の事などは、あまり語らなかった。

 注意されたこと

 「Leiちゃん、あの子があなたの事を求めてて困ってるの」
 「誰にでも懐くように、あまり1人の子と集中的に関わらないでね」
 「中途半端に関わったらだめよ」

 あれから

 保母から注意された内容については、養護施設で愛着を育てる事はできない以上、その場に必要な指導だと思っている。養護施設で中途半端に子どもに接したら大変な事になってしまうのだから、それはとても現実的な考えなのだと思う。

 その結果、わたしは、小さい子の一生に責任持てない以上、愛着持たせるのはいけないといつの間にか思ってて・・・誰かのせいにしたいわけじゃないけど。

 あれから・・・今現在のわたしは、

 今は中途半端に相手と関わってはいけないという呪いを解きたいと思う。好きな相手に好きと伝える、責任を持つから側に居る、そこから全ては始まるように思えてならない・・・。

 残念なのは、施設に居た頃に反論できなかった事。
 ごく普通に、指導を受け入れてしまった事。

 

|  養護施設にいる間の問題 | 13:56 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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無愛着者は傷つかないけれど、愛着のある人を傷つける

愛着障害・無愛着
SOUL FAMILY-project別館



別館・体験記の断片:Wolf記

 Wolfは10年会ったら10年分の愛着が出来ていると思っている。しかしLeiは10年会おうと離れる時は一瞬だと言う。

 Wolfが持つLeiへの愛着とLeiが持つWolfへの愛着は同じ分量ではない。Wolfは、Leiが離れれば生木を引き裂くように心が痛む。喪失感を味わう、けして無傷ではいられない。10年分のWolfの思いはぐしゃぐしゃにされる。

 ところが、離れていこうとするLeiは、Wolfへの思いが無いかのようにwolfから離れようとする。LeiはWolfから離れても無傷であるかもしれないけど、Wolfは引きさかれ無傷でいられない。けして同じ痛みを持つわけではない。

 無愛着は無愛着な人自身を傷つけないが、無愛着な人へ愛着を持つ人を傷つける。ボロボロにする。無愛着な子どもを受けた里親も同じ状態であると推察する。

 Wolfはボロボロだ。

2008年7月24日


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| └ 愛着障害・無愛着 | 03:25 | comments:2 | trackbacks:1 | TOP↑

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無愛着:反応性愛着障害のパターンについて

愛着障害・無愛着

反応性愛着障害といってもパターンがある

送信者 Lei Pictures


 反応性愛着障害には 抑制型愛着障害と脱抑制型愛着障害と大きなパターンがあるらしいときいた事がある。

 抑制型は優しく接しようとする人全てに攻撃的で心の隙を見せないようにするタイプで、脱抑制型は誰に対してもベタベタ甘えようとするらしい。

 愛着障害〜無愛着まで

 わたしが人から指摘されている無愛着というのはたぶん、脱抑制型と抑制型の微妙に混じったものではないかと思う。ただ、メインは脱抑制型なので、その場だけ受け入れてくれる人がいれば誰でもいいと感じてる。自由を奪う人が現れると攻撃性が出る。

 何故なら子どもの頃からその場に応じたパターンを示していたような気がするから。もちろんパターンを使い分けているわけじゃなくて知らず知らず状況に応じてそのパターンが出てしまうという事だと思う。

 施設に大きくなって入ってきた子はこの愛着障害が同じパターンの繰り返しに見えていて、職員も一つのパターンなので比較的先読みが出来るようだった。

 つまり抑制型は抑制型だけなので「いつもの態度ね」という捉えられ方をしていたようだ。家庭から来た子は人見知りを体験しているようだし、施設しか知らない子のように誰にでも好意を振りまくような脱抑制型はあまり見られなかった。

 懲りない子と困らせてやろうとする子

 だから大人への怒りを知っていて、人相も恐ろしい感じの子が多く、こういうパターンの子がやがて【大人の関心をかう為も含め】万引き、不良化していったように見える。捕まったらすごむタイプ。

 でも施設だけの子に多い気がする脱抑制型愛着障害の子の万引きの場合は、基本的に人間に対する愛着が無いので、自分でも悪い事をしている気持ちがなく、家庭の子と同じ万引きという現れ方があったとしても、その理由はつかみ所が無く【もしかしたらパシリとか】、万引きをした本人もよく説明できないのだろうと思う。捕まってもあっけらかんタイプ。
 
 脱抑制型の子は誰にでも求められれば求められるままに明るく応じるので人間関係が見えづらく、性的にも逸脱しやすくて、それでも懲りないように見えていた。

 パターンが読めない無愛着児 

 わたしは二重人格のようだと人から指摘されるくらい、性質のコントラストが強く、抑制型の時は誰も近寄れず、ボランティアが来たりマスコミが来たら急に脱抑制型の強烈なパターンを示し【調子こいてる状態】わりと外部から来た人の印象に残るくらい明るく誰にでもにっこり挨拶してた気がする。

 よく、仕事帰りの一杯飲み屋で意気投合しやすい人間で、名前も住んでいるところも何も知らないのにそんな事は一切こだわらず、今だけ気が合えばそれで幸せなような気分になっていた。一緒に飲みに来た会社の同僚から「おいおい、レイさん、そっちは違う会社の人の場所でしょ」と連れ戻されるシーンも多かった。

 なのにちょっとでもわたしと長く付き合おうと真摯な態度を向ける人が現れると突然不機嫌になり、自分の人生が他人によって縛られてしまう恐怖もおぼえ、急に攻撃的になってしまう事が多かった。

 甘えたいのに甘えられないのではなく

 それは、いわゆる、甘えたいのに甘えられない愛着障害児の感覚なのではなく、今まで自由に好きな人と好きな時に楽しんでいた愛着障害児/無愛着の感覚が強いのであって、その人から指図を受けている気分になり、耐え難い気持ちになるからだった。

 この部分が愛着障害の中でも無愛着の人が誤解されてしまう部分だと思う。誤解とは「甘えたいのに素直に甘えられない」という部分。

 無愛着は基本、脱抑制型がメインのような気がするので「誰とでも自由に楽しくやりたいだけ」であって「1人の人に甘えたいのに甘えられない」のではない、と感じてるのだが、解釈として間違っているだろうか。

 人生の初めから捨てられきってる子の場合はその現実に本人も気付かない、でも捨てられる不安を知ってる子は戦々恐々としていて愛着障害になるんじゃない?

送信者 Lei Pictures

★この写真、Mariaが撮ったかも。


 わたしの無愛着児としての基本パターン

 わたしは人は、つまらなければ別の人がいると思いやすいし、何もこの人だけじゃないと思ったり、今だけしのげばこの人はそのうち何処かへ行くだろうと思ったり、できるだけ瞬間気があう人とその場だけ楽しんでいられればいいという基本パターンを持っているような気がする。 

 わたしに捨てられた児童の悲哀が感じられないとしたら、こういう性質だからだと思う。そのうえ、わたしは無愛着なため、施設職員や保母からも怒りを向けられやすく、虐待を受けて尚、親を求める傷ついた子の話を、耳をひっぱられながら聞かされた続けたのではないかと推測している。

 まあ適当な文章を書いてしまったが、あまりに無愛着だと指摘される日々を過ごしているので、少し気分を吐き出している・・・。

| └ 愛着障害・無愛着 | 05:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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CLIP2008:水島広子の国会質問「乳児院から養護施設への移行」について

CLIP2008

 水島広子 HP 

参照元 次世代育成支援対策推進法案と児童福祉法改正案について
 



○鴨下副大臣

 神話という意味でいいますと、往々にして神話の中には事実も含まれているわけでありますから、先生おっしゃるような点からいいますと、ある意味で、過度に三歳児神話にとらわれるというようなことによって、お母様方が大変なプレッシャーの中で育児をせざるを得ない、こういうようなことは事実なんだろうというふうに思います。

 また、平成十年版の厚生白書においては、こういう記載がございます。

「少なくとも合理的な根拠は認められない。」云々、こういうような趣旨の記述はあるわけでありまして、いわゆる誤解も含めてなんですが、三歳まで母親が二十四時間密着して育児をすべしというようなことについては、これはそうではないんだろう、かように思うわけであります。

 ただ、先生もお考えの中にそういうようなことがあるというふうに私は拝察しているわけでありますけれども、例えば育児過程において、生育過程において、ある意味でのアタッチメントの質だとかそれから愛着形成と言われるようなこととか、ある意味で保護者に対しての基本的な信頼関係を形成していく、こういうような意味においては、だれかがメーンになってそのお子さんに接していく、こういうようなことにおいては、私は、三歳児神話ということではないかもわかりませんけれども、反面、極めて重要な点だろうと思っておりますし、さらに、それの多くは、一般的には家庭の中、それから今までの社会通念の中では母親が担ってきたということも事実なんだろう、こういうふうに思っておりまして、先生がおっしゃっているような過度な負担をある意味で母親に与えるというようなことにおいては、これは慎むべきだろうと考えております。

○水島委員

 今、副大臣がいい話をしてくださいましたので、通告の順番とすっかりひっくり返ってしまって申しわけないんですけれども、ちょっとそれに関連した質問をさせていただきたいと思います。

 今、愛着の重要性ということをおっしゃって、愛着、アタッチメントと言われているものですけれども、その重要性ということで御指摘をくださいましたので、まさにその点からひとつ質問をさせていただきたいと思うんですが、愛着の形成、それも人生の極めて早い時期での愛着の形成の必要性というのは、何も家庭に恵まれた子供だけにあるものではなくて、家庭に恵まれない子供にとっても、愛着というのは人格形成の上で非常に重要なものであるわけでございます。

 現状でそれをもう一度その目から現在のシステム、この児童福祉法の世界を見てみますと、非常に問題を感じますのが、例えば親から引き離されて、それは親を失ったとかあるいは虐待を受けて親から引き離されたでも、何でもその理由はあるわけですけれども、親から引き離されて親との間に愛着関係を築けずに乳児院に入った子供が、二歳くらいになると、現行法上、児童養護施設に措置されるという形になっております。

 親から引き離されて、乳児院側の努力で、なるべく一対一の養育をしようとしていただいて、やっとある人に懐いてきたかなというところで、今度また全然知らない児童養護施設に移されてしまう。
ここで子供は、もう生まれてから二度にわたって、愛着の破綻といいますか、それを経験することになるわけです。

 生まれてから数年の間に二度も大きな裏切りを体験するということになるわけですけれども、これがどれほど子供の心にとって深刻なダメージを与えるかということは、もう十分に御推察いただけることだと思います。

 子供にとっての愛着の重要性というのをそうやって御答弁くださった以上は、その愛着というものを軸にこの制度をつくりかえる必要があると思うんですけれども、いかがでございましょうか。

○鴨下副大臣

 私も同感であります。

 そして、特に乳児院の入所児童について、二歳になりますと児童養護施設に移される、こういうようなことで、それこそアタッチメントの質というような意味においては、そこで分断されるわけでありますから、多くは、そういうようなことで傷ついた心というのは、いずれのところでまた本人を苦しめることにもなりかねません。

 そういう意味では、特に乳児の場合は、保健医療面で、言ってみれば手厚い対応が必要である、こういうことはもう言うまでもないわけであります。

ただ、現行制度の中ではおっしゃるようなところがあるわけでありますので、この点はぜひ是正していかなければいけないというふうに思っております。

 そして、ある意味で、乳児院の中には例えば看護師さんが必要だとか、児童養護施設とは多少人員配置等が変わるわけでありますけれども、そのことよりも、むしろお子さんがそういう意味で連続的に、ある種信頼関係を持った方に養育してもらう、こういうようなことの方がはるかに重要なことなんだろうと思っておりますので、そのことを含めて制度を見直して、すくすくとお子さんが育てるようなシステムにつくっていきたいと考えております。

○水島委員

 今、はっきりと、もう制度を変えていただけるという御答弁をいただきまして、これは副大臣の御答弁でございましたが、大臣もそれでよろしいでしょうか。

――ここで大臣うなずいていただきましたので、これは本当に早急に変えていただきたいと思います。

 児童虐待防止法の見直しというのは、青少年問題特別委員会で今作業に入っているわけではございますけれども、児童福祉法のここの部分というのは非常に重要な点で、これはこれで厚生労働省が現在の中できちんと変えていただかなければならない部分だと思います。

こうしている間にも、乳児院から本当に泣きながら、あるいはもう人間なんて絶対に信頼できないという思いで児童養護施設の方に措置されている子供がいるわけでございますので、これはもう近日中に制度を変えていただけるように、何らかの形で、こういうふうに変わりましたということを示していただけますように、改めてお願いをしたいと思います。

 もちろん、親がちょっと短期間、次の子供を産むとか、何だか短期間、ちゃんと終わりがあるとわかっている子供を乳児院で一時的にケアするというのはいいことだと思いますけれども、やはりこれからもずっとそうやって育っていかなければいけない子供に対して、連続した養育の必要性ということは十分御理解いただけると思いますので、ぜひ現行のおかしな点を本当に早急に改善していただけますようにお願いいたします。

 また、家庭的な養育を重視する、一対一の愛着というものを重視するというような意味では、里親ですとか養子縁組ですとかそういったこと、これは日本ではまだまだ主流ではないシステムでございまして、里親を引き受けてくださる方というのもまだまだ少ないわけでございますけれども、こういったことを活性化させていく必要があると思っておりますけれども、それをどのように進めていけるのか、その施策のお考えについてお聞かせいただきたいと思います。

○鴨下副大臣

 先ほどからの議論の引き続きになるわけでありますけれども、安定的な愛着形成ができていくよう
な、そういうような保護者、養育者という意味では、里親あるいは養子縁組というのは極めて有効な方法なんだろうというふうに思います。

そういう意味におきましては、里親さんもしくは養子縁組を社会的にもっと知っていただかなければいけないわけでありますし、また、現実には、里親になられる方も大変な御苦労があるわけでありますから、そういうような方々のさまざまな活動を支える仕組みもつくらなければいけません。

 今回、平成十四年度から、特に被虐待児等に対する専門里親制度の創設というのが一つございますけれども、それと同時に、児童養護施設等と連携して行う一時的な休息のための援助などを里親に対しましてしていくというような事業をつくってきたわけでありますけれども、厚生労働省の中では、これは本年の五月に、社会保障審議会の児童部会の中に、社会的養護のあり方に関する専門委員会というようなものを設置しまして、里親制度の充実や、それから多くの方々に知っていただく、こういうような目的で、いかに何をするべきか、こういうようなことも検討していくことになっているわけであります。

 先生がおっしゃっているように、里親の方々が、不幸にも保護者等から別れざるを得なかったようなお子さんたちをお引き受けくださって、そしてお育ていただけるようなことを今度は社会が、多くの方々が認知して、重要な役割を演じていただいているんだということを私たちも皆さんにわかっていただくための努力をしてまいりたいというふうに思っております。



 非常に長い引用となってしまった。とりあえずメモ。

| 気になる記事のCLIP2008 | 18:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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読書感想文2:「しあわせな明日を信じて」乳児院・児童養護施設の子ども達の作文集

読書感想文

 関連記事 読書感想文:「しあわせな明日を信じて」乳児院・児童養護施設の子ども達の作文集

 


劇的な母との再会 山本春樹(十九歳・男性)

 施設で生活している子どもたちへ

 最後に、施設にいる子どもたちに伝えたい。施設にいることを恥だと思ってはいけない。逆に誇りに思ってほしい。多くの人は両親揃って一緒に生活し、何事もなく生活している。しかし、施設にいる子どもたちは、いろんな境遇の子と生活し、多くの行事を体験し、親と生活していいないという逆境を乗り越えているからだ。

 だから、施設によって生かされいるという意識をもって生活してほしい。そして、いつでも産んでくれた親への感謝を忘れてほしくはない。

 私は母親と会い、施設の話をするとことがとても後ろめたかった。しかし、一緒に生活し、そんな気持ちは一切消えた。施設への感謝の気持ちを、母親と一緒にかみしめている。

 生きるって素晴らしいということを教えてくれた施設に、感謝の気持ちでいっぱいだ。だから、どうか感謝の気持ちを忘れることなく、施設で生活してほしい。そこには、大切な何かがいつも転がっているから。 

 ※ 本文から引用部分をテキスト打ちしました。




当事者の語りの意義と可能性 貴田美鈴(岡崎女子短期大学教員)

 この作文は、小学校四年生から八年間にわたり施設生活を経験した春樹君が、施設での生活、母親との再会、将来への夢を語ったものである。いわゆる「当事者」による語りである。これまで、児童養護の当事者の声は社会に対してほとんど届けられなかっただけに、これは貴重な声である。私達は、ここから学ぶ事ができると考える。

 【中略】

 春樹君も語っていたような子どもどうしのいじめや施設の規則の厳しさなど、多くの当事者の経験には共通する部分があるといえる。このような経験をしていながら、春樹君は「施設ってすごくいいところだったんだなと、今痛感する」「施設への感謝の気持ちを、母親と一緒にかみしめている」と語っている。春樹君をこうした心境に至らせたものは何だったんだろうか。

 【中略】

 春樹君は「施設にいることを恥だと思ってはいけない。逆に誇りに思ってほしい」と、施設で生活する子ども達にメッセージを語っている。このメッセージの背景には施設生活を友人・知人などに「知られたくない」という子ども【市川、二〇〇八】の存在があろう。

 施設で生活した人々は「施設出身者」とよばれているが「施設出身者」という言葉には、その人の「出自」を問うという社会的「スティグマ」のニュアンスが抜きがたく内包されている。【市川、二〇〇八】

 【中略】

 しかし春樹君は、こうした「施設出身者」としてのネガティブな部分ではなく、ポジティブな部分に目を向けている。施設での生活があったから、良い生活習慣が身に付いたし、母親を探すこともできたと語っている。

 なにより、親と生活できない逆境を乗り越えてきたと、自負している。こうした思いが、現在の彼を支えているのかもしれない。
 
 【中略】
 
 今後、当事者が声をあげていけるためには施設内での権利擁護とともに、もう一、二歩進んだところで、施設や地域の枠を超えた当事者団体、当事者への支援団体の活動や運動が望まれる。

 ※ 本文から引用部分をテキスト打ちしました。
 


 

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読書感想文:「しあわせな明日を信じて」乳児院・児童養護施設の子ども達の作文集

読書感想文





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この本を読んで着目した点は、乳児院・児童養護施設の集団養護論に対する「優位性」に関する内容についての違和感でした。集団の「劣位性」としてあげられている養護施設内虐待や固定された相手に対する愛着の育たなさなど、色々ありますが、集団の「優位性」としてあげられている「仲間同士の育てあい」に言及している部分が、わたしには大人の不在を感じさせるものでした。

 子どもがたった一度の子ども時代を得がたいものとする為には、自分だけの固定された大人(養育者)が必要だと思います。子どもには何が必要かを考えた時に、自分が養育者にとって「かけがえ」のない存在となって初めて、理解できる性質のものだと思います。

 その後でなら、仲間との交流を考える事もできると思いますが、生まれた瞬間から集団生活を余儀なくさせられている子ども達は、いきなり集団のどまん中に放り込まれてしまうので、わたしは養護施設で育った者として、様々考えさせられました

 

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