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「必要にして十分」の意識を持ったままでは絆づくりは難しい

SOUL FAMILY-project別館

 喜怒哀楽を教わる


 わたしは感情が薄い・・・というよりも、感情が沸いて来ない人であるという事に最近気づいた。もっと周囲を見渡すと、世の中は感情表現に満ち溢れている。わたしは自分の内面に感情がうまく沸いて来ないことに最近気づかされた。たとえ多少の感情らしきものが沸いてきても、すぐに引っ込んでしまう。

 だからMariaから「Leiちゃん、もっとうれしそうにしてよ」と言われやすい。

 これでも全力で喜んでいるのに・・・と思わぬでもないけど、彼女からすると、きっと足りないんだろうな・・・とも思う。わたしはわたしの人生を傍観者のように見てるに過ぎない気がする。

 彼女は時々、自分自身をモデルにして、うれしそうにしたり、美味しそうにしたり、感動してるような顔をしたりして、喜怒哀楽とはどういう風に表すかを教えてくれるようだ。わたしはそれをボーっと見るだけで精一杯。

 わたしは、ほんのちょっとでも何か態度を示すと、何か、やりすぎたように思え、我に返りやすく、すぐに全てを、(何について反省してるかも分からず、出過ぎた態度について)自己反省してしまう。



 家庭育ち夫は学びの相手になれず

 夫は家庭で育ったので、わたしにわざわざそれ【感情表現など】を教える必要性を感じていない。夫は、そんな当たり前の感情表現が出来ない人間を見た事がないのだ。むしろ、そんな事も分からないわたしへの個人的な怒りに高まってしまっていた。彼はわたしを教え導く相手としての役割は出来なかった。
 
 確かに彼もまたわたしの前で、単に自然に生きている家庭育ちの人なので、2人はいつまで経っても話がかみ合わないまま、夫婦生活を送ってしまった。これでは、多くの施設育ち&家庭育ちカップルは離婚するしかないのが理解できる。

 このような「当たり前の喜怒哀楽」も「学び」の意識を持った互いでなくては、単に、自然体で生きる、生き方の違いを押し付け合う互いでしかないのだと知った。

 共感をイメージする努力

 施設では、子ども同士で子ども会議をよくした。施設で住みやすくする為に子ども達が自発的に始めたらしい会議だが、そこに共感が生まれる事はなかった。どちらかというと、育ちの違う者同士の立場の違い、気持ちの違いが露呈するばかりだった。だからこそ共感を伴わない、ルール作りが必要だった。集団生活の場なのだから、当然の事に思えた。

 わたしは共感と関係のないルール作りを今も家庭に持ち込むが、夫は先に共感がほしい人である。彼が言うには「ルールは、共感が伴えば自然に生まれてゆく」と言っていた。それは「思いやり」とも言うらしい。

 夫婦の育ち方の違いが、このようにいつも不思議なブレやズレを意識させ続けていたが、おそらくわたしの方がずっとオカシイのだという事は、ソウルメイトとの言語化を伴った整理作業のおかげで、次第に分かってきつつある。

 理屈は時々、とても役立った。しかし、色々な事を理屈で考えたその先は、共感を伴わせないと実戦配備しにくい。家庭では理屈だけで生きていけない。家庭での人間関係には、理屈以上の事柄を求められる。

 施設時代のような、必要にして十分程度な対応では、とても家庭育ちの人を納得させられない・・・という事は分かってきた。本来なら子ども時代にゆっくり学んで来られた内容なのに、施設育ちの自分としては、山積みの夏休みの宿題を見つめるような、途方も無い気持ちである・・・。
 
 ともかくがんばれ自分・・・と言うしかない。

|  Soul-Family-projct・別館 | 06時37分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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