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大人ぶる子ども視点とは違う、本当の大人の視点を持つこと

メンタル整理

 冷静であること

 施設時代のわたしは「冷静な子」だったようだが、その冷静に見える態度は同時に、大人から子どもらしくない、大人ぶっているとからかわれる要因でもあった。

 わたしは「大人ぶってる」と職員から、からかわれると、何か衝動的に複雑な心境に陥っていたが、その発言の意図を職員に問う事は考え付かなかった。

 物心付いた頃施設にいて、物心付いた頃には施設にいた子ども達はすでに冷静だったのだと思う。そのような子ども達を「大人ぶっている」とからかう職員も居た事を、一応言っておこう。


 わたしは子どもとしての態度を身につけずに育ったきたが、子どもでいられなかった子どもなのではなく、子どもだった事を知らなかった子どもの1人のように感じている。


 子どもであることを知っている子どもは、子どもとして扱われなかった過去の育ちを怒ることが出来ると思うが、子どもであることを知らなかった子どもは、やっと今、あの頃自分は子どもだったのか!と気づく、何ともお粗末な状況なのだ。それにしても天然過ぎる。

 子どもとしてどのように育てばいいのか分からない理由の一つに、自分がどのように施設で育ったのかを考えなくては見えて来ない性質のものでもあった。だから過去の育てられ方を考え続けている。

 歯車の子ども達

 わたしにとって施設で全て育ったといういうのは、大人の今、考えれば考えるほど「自分がすでに捨てられていたという事」を、施設に長期いる事で(事実上)説明しているようなものだった。

 わたし達は、どれ程沢山の恵みを受けても感謝できなかった。わたしではなくてもいい、誰が恩恵を受けていてもいい、施設の子の集団の中のわたしは、わたしそのものではなかった。

 まるでなんというか・・・ギアのような気がしていた。そのものを動かす為の、動力を受けてひたすら回る部品でしかなかったように思う。施設という大きな城を動かす為の歯車のようにしか感じられなかった。役目が終われば捨てられる。

 育った環境をを問題視する意図

 一般の家庭を知らないこと、家庭を作れないことと同時に、わたしは結婚前に施設で全て育った事を問題視する事ができなかった事が問題だと思う。無愛着児は表現すべき事を何も持たない。誰との固有の関係性も持った事のない人が、一体、何に怒れるだろう?何に悲しめるだろう?と今では思う。

 わたしの中には、いわゆる子ども像がない。他人も自分も含め、とても子どもに皆、見えなかった。

 あれは不思議な感覚だ。施設の中の子ども達は子どもには見えない。この感覚を説明しづらいが、一般社会の通学路を歩く小学生らの本当に可愛らしいこと・・・外に出て最初に驚いたのは、施設の子ども達の顔と一般社会の子ども達の顔の違いだった。

 しかし、子どもとして生きる道を児童養護施設という養育環境では見つける事ができない。施設しか知らない子ども達は大人になっても、過去の自分の扱われ方を怒る事ができない、だから、捨てられていたように自分と周囲の人を捨てるのだ。

 捨てないことが戦いだし、捨てさせないことも戦いだと思う。【思い合っている互いであるという前提です】

| ├ メンタル整理 | 13時44分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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