PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --時--分 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

いわゆる施設の集団養育を経ても一般社会のガキ大将文化を学べなかった

養護施設にいる間の問題

 ”集団”の形

 わたしは今「わたしが現在身を置いている社会性に基づいた集団と、あの頃、児童養護施設の集団養育の場での集団は、同じくくりで括られていいのだろうか・・・」と考えている。


 わたしは今、少なくとも3人の人間が集まっている様子を見るだけでも何故か”不穏な集団のように見え”、自動的に「たむろしている」ように感じてしまう癖がある。

 これでは非常に困るので、整理を必要とする・・・。


 あの頃の施設での集団と、この社会の地域の集団は別ものだ

 大人は過去の育ちの影響を自覚・無自覚によらず、強く受けている事について、理屈では判るが理屈が判ったからといって身体症状や心理的緊張が緩和されるわけではなく、整理作業をしていてもけっこうリアル世界では苦労している。

 姑は「3人寄れば文殊の知恵」と表現するし、
 夫は「最低3人居れば何か遊べる」と思うらしい。
 
 個人を集団の固まりとして捉える癖のある自分としては、感じ方を直す事も重要事項なのだと感じている。


 施設集団と一般社会のガキ大将の子ども関係を同一視

 そこで再確認・・・

 今思うと、児童養護施設という潜在的(ほんとは表出しまくってる)な暴力のリスクの高い場所での集団性と一般社会での社会性に基づく集団性とは、その集団の性質が異なっているのだから、子ども達が常に施設内で緊張状態にあったのは当然の事なのだ、という捉え方を持ち始めている。

 どこかの施設長が、ウェブで自論を展開していて、「児童養護施設の集団養育の場は、現在、一般社会で失われたガキ大将の世界だ」と表現してて(言葉は多少違うかもしれないが、言ってる事は同じ)、今なら、その施設長が、集団養育論先にありき語っている姿勢が見えてくる。

<!ーーここから こっそりとは言えぬ呟きーー>

 『私は児童養護施設の集団養護論を保持し続け、それに伴い、集団養護の箱物である施設建設を推し進め、集団性の失われた子育て地域に貢献しつつ、これからも利権を守ってゆく所存です!』と何処かの集まりで語る、見た事のない人の副音声的幻聴と、幻視が勝手に浮ぶ(?)自分の本音もある・・・。
 
<!--ここまでーー>

 溶け込めないのでなく、溶け込む必要がない集団

 大人のわたしは今、地域の防災訓練や、地域でのイベントなど、3人以上集まる機会が多い。そしてそれらの円滑な作業の為にも、この集団に溶け込む事を必要としている。それは互いをつぶし合う集団性ではなく、分担し、少しでも地域をよくしようとする集まりであり、情報の共有の為にも必要だと感じている。

 しかし施設時代の事を振り返ると、あれは地域のガキ大将(それをドラえもんとちびまるこで勉強中)の世界観ではなく、単に破壊力を抑えられない子ども達のたまり場だったのだと認識している。

 大人(職員)の数も少ない中、家庭で虐待を受けた子たちは、やくざ顔負けのグループ抗争の様子を呈していて、何処か派閥に入らない子は風呂場の後ろでボコボコにされるのを覚悟しなくてはならない。

 暴力を前にして「そんな集団に溶け込む必要は無いと言い切れる子は皆無に近い」のだ。中にはいじめる側のグループから外されない為に、苛めを止められない子もいた。

 そして短いスパンの中で、今度は下級性が長じて小さい子をボコボコに・・・。これが施設内の集団では繰り返される。このような場に、乳児院から来たばかりの無愛着幼児がほったらかしになったまま、蹴飛ばされても立ち直り、生きている。

 わたしは、どう考えても溶け込む必要の無い集団というものがあると思う。

 施設では「集団だからこそ他人を思いやれる子が育つ」と称して、結果的に子どもを放置しているがその間も「集団生活によって、自分より力の弱いものは破壊しても構わない」という意識が育っている事の危険性を問いたい。施設ではこれを「育ちあい」とも称している。

 夫にとっての学校のいじめ

 夫は「のび太が施設の子だったら、ドラえもんも居ないし(のび太のお家がらみの話なので)、誰もいない中、ただいじめられ続けて凹されるだけの話になるね」と言った。大人が居ないのび太には救いが無いだろう、確かに。

 前出の施設長もたしか、のび太とジャイアンの子ども関係を社会性の学びの場と捉えていたフシがあるが、守りの全くない状況で、生活エリアにも及び続けている、やられ放題の施設の子と同じ状況ではけして無い。

 わたし達施設全部育ちが、何の疑いもなく押し付けられた、どんな集団であれ、その中に溶け込んでいる子が正しい子であるという認識を、今一度考えてみたい。

 何かがオカシイと警報を発するくらいの野生を失くしたくない。
 暴力は暴力、破壊は破壊、虐待は虐待だ、

 そして虐待環境からは救われてほしい

 たとえば、学校などで、ある施設/家庭の子が、それぞれの場所で虐待されている為、その被虐の雰囲気漂う場合(いじめられっ子オーラのようなもの)、その子に対する、ある種敏感なクラスメートのイジメは明らかな暴力であり、れっきとしたイジメなのだ。

|  養護施設にいる間の問題 | 06時31分 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑

Re:対象者が居ない事の整理作業

>施設だけで育った子の多くは苦悩していません。何故なら憎む相手も許す相手もいないから、苦悩しようが無いのだと最近は感じています。
>誰かをいつか許す事ができる様になるためには最低でもその為の相手が必要だったのだと考えた時、少し頭が真っ白になりました。


流動的な人の中で育つということが、自分にはまだまだ想像のつかないことなんだと実感する言葉でした。いろいろと感情が湧きあがるのですが、どう言葉にしていいのかまだ分かりません。しかし私にとって非常に心が震える事実です。

私もどうしたらいいのか日々考え中ですが、貴重なLeiさんの言葉をこれからも読ませていただきます。少しづつできることしかできないけど、この国の子どもたちすべてが(というか世界の子どもたちが)幸せになれる日を望んで私もブログを続けていきたいです。

何度も書き込んですみません。それではこれからもよろしくお願いします。

| 福来 | 2009/09/08 13:56 | URL |

対象者が居ない事の整理作業

 相互リンクありがとうございます。よろしくお願いします。

 福来さんのブログ記事を読ませていただくようになってから、家庭の方の考えが少しずつですが、自分の中でも解釈できるようになってきたように思います。

被虐待児の暴れっぷりは記事で見させていただいていますが、やはりそれもLeiさんにとっては考えざるをえない人間関係だったのですね。「考えつづけるということは、許そうってことだね」と私のツレに言われたことがあり、

 そうですね・・・もし、わたしが固定された生活環境の中で、固定された人間関係の中で、到底許せないような何かがあったとしたら、おそらく過去の整理を重ね、将来は相手を許すという選択肢もあるように思います。

 だけれど、わたしの場合は、自分が卒園するまでどれ程の人々が通り過ぎて行ったか覚えていなくて、その通り過ぎて行った人の中には、去り際に殴りつけてくる人もあったと思います(個人的に人が思い浮かばないが、施設の全体がそうであった)

 ですので誰か特定の人を覚えていられない問題がどこにあるのかを整理し文章化する必要を感じ、今に至っています。その一つに、幼い頃からの集団&流動的な施設の養育環境があるのは理解しつつあります。

 そして他のオール施設出身者を見ていて感じる事も・・・

 今わたしは「施設の中に忘れられた子ども達がいる」という事実を少しでも世間に、ブログやサイトなどを通して地道に広げて行きたいのです。

 固定された相手のない子ども時代、流れ行く人々、殴られたりリンチされたり、イジメを受けるのが当たり前に感じる、この感覚を修正し、本来子どもは、どのような環境で育って欲しいかを延々と考え続けてゆくつもりです。
 
 施設だけで育った子の多くは苦悩していません。何故なら憎む相手も許す相手もいないから、苦悩しようが無いのだと最近は感じています。彼女ら彼らを見てると人間らしく苦しませてあげたいとすら、思うようになっています。

 誰かをいつか許す事ができる様になるためには最低でもその為の相手が必要だったのだと考えた時、少し頭が真っ白になりました。

 長くなりましたが(汗)どうぞよろしくお願いします。

| Lei | 2009/09/08 03:21 | URL | ≫ EDIT

ありがとうございます

リンクの件ありがとうございます!
相互リンクとても嬉しいです。Leiさんのブログの児童福祉系のリンクとは異なり家庭の話に終始している内容なので、相互までとは思ってなかったんでとても嬉しいです。
Leiさんのコメント嬉しくてホクホクしてしまいました。とても沁み入る素敵な褒め言葉をいただいてしまいました。^-^

被虐待児の暴れっぷりは記事で見させていただいていますが、やはりそれもLeiさんにとっては考えざるをえない人間関係だったのですね。「考えつづけるということは、許そうってことだね」と私のツレに言われたことがあり、許そうなどと考えたことはなかったのですが非常に優しい言葉だなあと思い今でも胸に残っています。きっとそういうことなんでしょうね。

>家庭育ち&施設育ちの大人が共に、この国の子ども達の事をそれぞれに特有の状況を理解している事を生かして考えてゆけるのは、本当に望んでいた事です。

知らないことばかりですが、私もそれを望んでいます。別な角度から眺め、一緒に子どもたちを守るということができたら本当に嬉しいことです。
これからもよろしくお願いします!

| 福来 | 2009/09/07 18:01 | URL |

よろしくお願いします

 福来さん、お申し出をありがとうございます。

今私のブログで少しづつ児童福祉のサイトにリンクを張らせていただきたいと考えています。私のブログでこちらのリンク貼ってもよろしいでしょうか?

わたしもリンクをお願いします。

 わたしは福来さんの記事を読むときちんと納得できるので、とても視野が広がるような予感を覚えていました。施設にはポンコツ家庭からの子ども達が、それぞれの問題を抱えて入所してきます。その事を考えると、彼らと対峙せざるを得なかった自分の過去の整理にもつながる気がします。

 ほんとは施設にいる頃、福来さんの記事を読めてれば良かったと思うくらいです。
 
 これからもどうぞよろしくお願いします。家庭育ち&施設育ちの大人が共に、この国の子ども達の事をそれぞれに特有の状況を理解している事を生かして考えてゆけるのは、本当に望んでいた事です。行幸です。

 過去の傷を抱えていても大人として生きる福来さんの姿勢に想いを馳せます。

 ありがとうございます。

| Lei | 2009/09/07 15:46 | URL | ≫ EDIT

そういう世界なんですね

やはり大人の目が届かないところでは力が絶対的なものとして支配してしまうのですね。学校でおきるいじめの延長が生活の中にまである。それが生活であるというのは学校で言うガキ大将とはまったく違う話なのに。のび太だって家に帰れば苛められないですむのに、それと一緒くたにしてしまうのは相当乱暴ですね。

「一般社会で失われたガキ大将の世界だ」ということは、子どものやることなのだから暴力ではないとでもと言ってるようにも聞こえますね。実際に傷ついている身体があるというのに、ガキ大将のやることだから暴力ではないとでも言ってるようなもんです。ちょっとムカっときました!
(〝▼皿▼)=3 ムッキー!!

ドラえもんつながりで思い出したのですが「のび太の結婚前夜」っていう回があるんですが、のび太が本当にしずかちゃんと結婚できるのか確かめるために未来へ行って、結婚前夜のしずかちゃんを観察するとマリッジブルーになってお父さんに不安を打ち明ける。それをしずかちゃんのお父さんが諭す、名作と呼ばれる回があって、私これ十代の時全然分からなくて。
だって風呂のぞくんだよ?ヘタレにもほどがあるんだよ?成績も悪いし弱いし!私が母親だったら止めるよ!って思ってたんですが、最近しずかちゃんのお父さんが言ったこの言葉の重みがどしりときます。

「のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。」

ああ、本当にそうだよなあ。人間にとってそれしかないよなあって思います。Leiさんの子どもたちを思う優しい気持ちが、一番大事なものだよなあ、って。それを思い出しました。

暴力に屈するしかない辛い状況で、そんな綺麗事など通じなかった現実の中でそれでも子どもたちを思い、心配する。きっとそれが現実を変えていく力になるんじゃないかと、そう思います。

今私のブログで少しづつ児童福祉のサイトにリンクを張らせていただきたいと考えています。私のブログでこちらのリンク貼ってもよろしいでしょうか?

| 福来 | 2009/09/07 13:51 | URL |














http://escapeorgoodfight.blog85.fc2.com/tb.php/1036-18072026

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。