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壊れた物をそれ以上壊されない為やれる事は壊れた状態を保ち続ける事

養護施設にいる間の問題

 #施設への措置しかないのにマッチングもへったくれもありゃしないけど、そういう観点から整理作業

 壊れたガラス片を掃除する事はズルいか


 自分が何者か知らない為なのか、自分の(他人は興味が無いので)児童票を盗み読んだ事が一度だけあった。当時の保母が書いた日誌には、壊れたガラス片を黙々と掃除するわたしをズルい子だという風に書いてあった。

 他の子が叱責を受ける態度を正しいとし、散らかったガラス片を気にして掃除したわたしの一緒に叱られるべきなのは理解できるが、同時に、虞犯の彼らはもともと住まいをきれいに保とうという発想はなかった。いつも住居である施設を壊していて、わたしはおかげで掃除魔の様な気持ちになってしまった。

 わたしは家庭の住居のイメージは無いが、いつもきれいに掃き清められた大きな庭と深い森と木立と教会と賛美歌とを心象風景に持っていたので、ただでさえ劣悪な施設の住環境を自分達でさらに激しく痛めつける行為を受け入れ切れなかった。

 たぶん割れ窓理論という発想も、その頃から自分なりに脳内で考えるべきテーマだった。単に割れた窓を直していくだけで、本当にすさみ切った虞犯少年達の心は、改善されるのかという疑問は、その頃から、掃除したガラス片の頃から芽生えていた様に思う・・・。



 それ以上壊されない様に

 泣かなかったのか、泣けなかったのか、意思があったのか無かったのか自らでは分かりようも無い。でも、不思議な事に自分の大事なマリア像が壊された時だけは、それを直す事ができなかった。脳裏に浮かぶのは、わたしが彼らが狂った様に壊しまくった後のガラス片を掃除すれば、それに怒りを覚えた上級性が、更にもっと壊すのを体験しているので、直してはいけないのだと知る様になった。現状維持、そうする事で証拠を押さえるのではなく、施設での現状維持は、それ以上の自分の壊滅をやや、避ける為の無自覚的行為だったと思う。

 施設という場所は全ての問題が詰まった場所なので、その世界で救いを求める事自体ムリがあった。

 わたしは施設をロールプレイングの場所だと感じるのはそういう事から。「彼らも家庭で虐待を受けて傷を受けているんだ」と、その彼らから虐待を受けている小さな子達が、自分の出来事と混乱を納得させられる世界で心の破壊を免れる事は本当に難しい。だから宗教系施設で、のめり込む子がいるのも何となく理解できる・・・しかし。

 実際わたしの出た施設の人で真面目だった子の方が、より社会でうまくいかず、精神科へ入院したりしている。家庭を作れない子も多い。だけど何故そうなのかわからない、単に施設で長期間育っただけなのに、何故なのか分からない。

 ただ、施設時代の元虞犯少年がすっかり良い親父になり、「昔はヤンチャ坊主だった」と明るく笑う姿を見ていると、どうにも混乱して、その場にいられなくなった事はある。憑き物が落ちた彼らと、それを背負わされた子達の明暗が、心のオーラとしてハッキリ色分けされている・・・。
 
 海外の里親委託のマッチングを見て

 家庭の子は施設という漠然とした世界に籍を置いていないので、あくまで一時的である事を自覚無自覚関係なく知っている。だから施設を吐き出し場所にする。自分の怒りや憎しみやを全て吐き出す場所としている子が多かった。

 乳児院からの子や物心ついた時からの子にはない寄って立つ物がある。わたしはカトリック系の乳児の保育所の様な場所にいたと仮定して、たとえその場所でカトリックのイメージを持たされたとしても、人間が誰も出て来ない。単に宗教系施設を渡り歩いただけという感じ。しかし、運が悪い?事に、2度目の施設の宗教の形態が違ったので、知らず知らずとはいえ、わたしは浮いてしまう結果となった。
 
 1つの世界観を持っている児童というものは、世界観すらない施設の子ども集団の中では特殊で、やはり目立つ存在。集団生活をきちんと守ろうが真面目であろうが、その施設の空気感とは違うものを持っていればどうしても、周囲とのズレが生じる。

 しかし、ドイツなどの海外の里親委託には宗教観のマッチングもきちんと条件として入っている。わたしの場合施設児童なので何とも言えないが、その児童が施設措置される際の、宗教的背景を全く議論されないまま入れてしまうと、わたしの様な、少しレアケースかもしれないが、起こり得ると感じている。

 十字軍の問題を責められて

 そうそう、何故Mariaの言葉、迫害に違和感を覚える事が出来なかったのかというと、わたしはプロテスタントの職員から怒鳴りつけられた記憶がある。「十字軍の蛮行をあなたはどう責任取れるか」と・・・。わたしは子供だったけれど言ってる意味は、その責めの部分は心のどこかで知っていた・・・たぶん。(要・整理)

 ただわたしは、激昂しておかしくなって怒鳴り散らす大人の姿を見ていて、答えのない答えがある様に感じたのは事実・・・。宗教の問題になると、その相手が子どもであるかどうかなんて全く関係はない。ただ、絶対に優位に立ち、相手の信仰を粉々に破壊する事しかできなくなる大人が、僅かにいて、それは、社会福祉に携わる大人ではなかった。単なる敵対者として、心理戦を凌ぐしかなかった・・・あの頃、施設全部時代を通して、そういう図式にはまっていたのかもしれない。  

 児相も知らない期間は未就学時代

 又実親が生きていた為、実親が無宗教なので、わたしがまさか宗教的背景を持っているとは児相も知らなかったのだと思う。これが、実親とその児童の間に絆があると思い込んでいる事で生じやすいリスクではないかと思う。親子神話というものかもしれない。なぜなら、未就学児の場合は、その時期、その子が何処で育っていたとしても児相は調べようがない。

 すべては実親だけの証言に委ねられているので、実親が自分で育てていたと言えば、その通りになってしまうのだ。どちらにしても、大舎制の施設委託なのだから、マッチングもへったくれもない。集団生活に馴染もうが真面目だろうが、どんな宗教だろうが、施設で問題児でなければそれで全てOKだったのだと思う。

 物心付いたら施設世界しか知らない事と、親のイメージや家庭のイメージが全く無い児童が大人になった時、国にきちんとお返しできる大人として育つ心理が育ちにくい、帰属意識の全くない心理を持たされる事を考えずに、施設の宗教の違いを議論し合っても、それは、非常に虚しいものになってしまう。

 だから、わたしはわたしが自分の育ちを通して感じた問題を問題化した動機とその論点をずらしたくない。


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