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自己無き管理的お砂場遊びの様な児童養護施設の概念を解除中の、自分の思考の行く末

メンタル整理

#確かに客観的に見て、自己の無い自分の頭で考える事の出来ない羊の群れという側面はあるが。 

 テーマは乳児の愛着の問題

 わたしは施設で集団管理されて育ったが、それをもって集団に於ける社会性が身に付いたとは思っていない。過去の真面目な自分を否定はしないけれど、しかし、子ども時代の全てを施設だけで育つ事は非人間的な措置・処遇だと思っている。

 生まれたての乳児に、まず、いきなり自立や社会性をその子の課題として求める養育環境は、育ちの発達の順番からいうとおかしいし、さらにそのまま、児童養護施設への措置変更で、一度も固有の大人から愛護される事も無く、今度は集団世界の管理の中で生きねばならない。この様な育ちの何処に人間の命の尊厳に配慮したケアが感じられるだろうか・・・。

 だから、集団のルールは守れるが、固有の人間関係は紡げない、命令には従うが、信頼に於ける約束を守れない、あるいは、その約束と命令の区別がつかない。与えられれば受け取るが、その事に対して感謝の念というものに繋がれない、自分の事が理由で、目の前で泣いたり怒ったりする人を見ても、その人の反応が、自分に関係ある事とは感じられず、乖離した感覚。というチグハグな人物が1人出来上がってしまうのだと思う・・・。



 管理される事に慣れすぎている

 あの頃、わたしは家庭から来た子の怒りが分からなかった。しかし、家庭から来た子が何に反発しているかというと、彼らは家庭からいきなり引き離され、施設に収容された事に傷ついて怒りを覚えている様であるという事が、今は、ぼんやり理解できるようになった。

 そして現在は双方大人になり発信を始めた。家庭育ちの施設出身者は、自分を裏切った親へ、虐待した親への怒りもあり、それが家庭という世界への怒りに繋がってもいる様だ。当然彼らの立場なら、里親家庭も家庭であるのだから、もろ手を挙げて応援する気持ちになれないと思う。

 一方、物心ついたら施設にいた自分達については、集団管理される生活しか知らないので、確かに外から来た子の目には、自分の脳で考える事が出来ない羊の群れとしか、映らなかったのだろうし、実際、施設の中でもお互いに理解しがたい存在だったのではないかと思っている。
 
 子ども時代の確執はネットに持ち越しか

 その頃の、互いに理解できなかった相手の存在を疎ましく思い、その延長上の対立が、長じてネット社会でも再燃している様に思う。これが施設育ち同士のネットでの確執の1つの理由だろうと思っている。

 しかし、わたしはそこに留まらない、やるべき事が多すぎて、子ども時代の再演のわだちにはまるつもりもない。

 誰も人として生まれたら、虐待の無い大舎制の施設よりも、虐待のない一般家庭で育ちたいのではないだろうか。

 ともかく・・・羊の群れを愚かな一群れと思うなら、勝手に思えばいい。

 体だけは頑丈だから製造業しかない

 さてさて余談を2つ。

 一つ目は、

 わたしは製造業ばかり選んで仕事をせざるを得なかった理由を、今ではこの様に考えている。製造業はラインでモノを作る事だけに専念し、余計な事は一切考えずにすんだ。正社員の頃も派遣社員の頃も、製造業でモノを作る以外、自分は出来ないと思っていた。#ただし、仕事をラインでの製造業に選んだ時、この様な動機で選ぶ事は間違っていると今は知っている。

 「頭は悪いけど、その分、体だけは頑丈」「言われた事だけをやる」「けして逆らわない」という、いわば命令にだけ従えば仕事が出来るという世界観しか持っていなかった。夫はわたしに対して「これも出来る筈、あれも出来る筈」と言うが、わたしはそう言われてもプレッシャーしか感じなかった。全てにおいて経験値が低い事と、その問題を言うにはもうすでに、成長しきった大人だったので言えなかった気がする。

 わたしは命令する役目の人が下す「1つの命令」に対して「予定された反応を返す」だけで全ては何事も滞りなく過ぎてゆくものだと思っていたし、その命令に全ての人間が従う事が社会的な集団的なルールだと思っていた。しかし、本当の社会性というのは、先に自己があってこその、自己と集団との対峙である・・・自分が色々な情報を、多少なりとも持っている必要があり、その命令の意図を把握した上で、自分が決定する必要があると思った。

 マザー基地と解釈するならば 

 余談の2つ目・・・。

 マザーシップ、マザーアース、マザーコンピューター、経営母体、マザー牧場(ちょっと違うか)帆船は女性名、などなど、何故ここまで「マザー」が出てくるのか少し悩んだ事がある・・・。何故こうなのか分からなかったが・・・最近少し分かる様になった。

 マザーとは、もしかしたら人の中に共通にある、あらかじめインプットされている筈の、挑戦の為の安全基地(ベース)なのではないだろうか?児童養護施設の様な、いわば中継基地ではなく、大元のベース基地ではないだろうか。

 家庭では、子ども時代に、母親の懐をベース基地にして初めてのお砂場デビューに入る。その時に初めて社会との邂逅を体験する。もちろん失敗しても良い、子どもなのだから。背後に家庭というベース基地があれば、失敗する度に戻れるという心理的な余裕がある。失敗しても良いというチャンスがあるのだ。それをこそ、子ども時代に必要な事柄だと思う。

 施設入所児はすでに幼少時にはタメが無い

 しかし施設はどうか。施設全部育ちは特に・・・人生の初めに集団生活しか知らない場合、メンタルに違いは起こる筈。そして社会へ投げ出された時、失敗するチャンスもない。「タメが無い」ともやいの湯浅氏が言ってる事に似てる。失敗を許されないタメ無き状態を、施設長期入所児はすでに幼少時代から突入させられているのだ。

 その事からも、人生の初めが集団生活からのスタートであるわたしに自己がある筈もなく、命令に従うだけのロボットの様なモノだったのだと思う。何せ失敗も許されず、挑戦する場もなく、全ては集団生活を維持する為だけに生存する、児童という名の子ども達だったのだから・・・。

 自分の失敗の責任を誰も取らない世界観の中で失敗しない為にそっと集団の中で生きている、そんなところがあった。失敗は自分自身の存在の全否定に繋がりやすい施設では、大人しい羊の群れとしての生き方も仕方なかった。失敗しない生き方も、誰も居ない自分達にとっては一種の鎧の役目をしていたのだから。

 そういえばわたしの文章を苦手と言った方が、その理由として、無機質金属的とおっしゃった。夫は夫でわたしをロボットの様だと言い、ソウルメイトは、その捨てられっ「ぷり」と言った。異口同音とはこの事だろう。

 先に自己があってこその集団との対峙

 措置解除の頃、一般社会での自己の確立という問題にいきなり遭遇する。その上、家族資源もない、誰もいない、路上生活スレスレの派遣時代に、頭のどこかで、自分が自己を見つけないと社会に馴染めないとぼんやり思っていたが、命令に慣れ切った頭では、何をどうしていいかわからなかった。

 もう「管理されない、命令されない、集団のひとコマとして動くのではなく自分の脳で、自分の采配で考えなくちゃならない、自己を意識しなくちゃならない」というこれらの課題を乳児院・施設全部育ちが、たった一人で何処までやれるだろうか・・・。かつての集団管理に慣れ切っていて、さらにタメもなく、スキルもない元児童が?

 現在は一般の家庭で育っても、とても厳しい昨今なのに、さらに自己の無い施設育ちが、集団管理に慣れ切った施設全部育ちが、1人でしっかり生き残る為には、新しく自己を構築していかなくてはならない。施設育ちが自立出来ない、転職を繰り返す、など問題視され、アフターケア事業の必要性が叫ばれるが、まず、自己の育たない集団生活しか知らない全部育ち・長期入所児の育ちの問題が語られる事はない。

 社会システムの不備の問題を、個人のやる気や資質の問題にすり変える様な、いわゆる関係者の物言いに対して、違和感を覚えている。個人の抱える問題は往々にして社会の不備の問題だと思っている。その社会システムの不備を突くのが、大人となった施設全部育ちの元羊の(この言い方、結局妙に自分の中で馴染んでる?)出来うる最大限の事だと思っている。

 ともかく、大人になった施設育ちは自分で自己を作り変えなくては、一生自分の頭で考える事が難しいだろう。

 わたし達は個として育つ必要があった

 元羊の言いたい1点・・・。

 わたしは、そこまでおかしい事を言ってるわけではないと信じたい。家庭を知らない子に家庭をと言ってるだけなのだが、その普通の願いが、これ程遠いとは。実質捨てられている乳児・児童の育ちに必要な要望に答える事の出来ない施設養育では無理がある。捨てられた子には自分だけの家族を得てほしいと、つくづく思う。

 

| ├ メンタル整理 | 16時13分 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

・・・


 そうか・・・

WolfさんのLeiちゃんへの褒め言葉「無愛着を文章化する唯一の人」というのが、理解出来るわ。

 リアクションのしようがないよMaria、
 それが褒め言葉だなんて、何となく・・・・ね。

 

| Lei | 2010/01/08 15:24 | URL | ≫ EDIT

Leiちゃん、

この頃、切れのいい、わかりやすい文章を書くようになったわね。すごいと思うわ。

WolfさんのLeiちゃんへの褒め言葉「無愛着を文章化する唯一の人」というのが、理解出来るわ。

それにしてもトルストイまで出てくるなんて、すごい記事ね。トルストイは、「アンナ・カレーニナ」「戦争と平和」くらいしか読んでいないわ。「復活」も読んで見ようかしら…

そう思って、Wikipediaで調べたら、どこか知っているストーリー。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

ひょっとして、昔、読んだかも知れない…
でも、Amazonで上下巻セットで130円+340円(送料)があったから、もう一度読んで見ようと思うわ。

中学生時代が懐かしいわ。

| Maria | 2010/01/08 00:32 | URL | ≫ EDIT

ありがとう

 トルストイ、よく読みました。でも改めて良い文章だと思いました。大人になって読み直すのもよさそうですね。

 いつもありがとうございます。

| Lei | 2010/01/07 20:57 | URL | ≫ EDIT

 「要するに、愛情抜きで他人を取り扱えるような立場があると人びとは考えているが、そんな立場なんかありはしないのだ。そりゃ相手が物なら愛情抜きで扱うことができる。愛情抜きに木を切ったり、煉瓦を焼いたり、鉄をきたえたりすることができる。ところが人間を愛情抜きに扱うことはできない。それは慎重な心づかいなしに蜜蜂を扱うことができないのと同じことだ。それが蜜蜂の特質なのだから。もし慎重な心づかいなしに蜜蜂を扱ったら、蜜蜂もそれを扱う人間もひどい目にあうのだ。人間を扱うのもそhれと同じことで、それ以外ではありえない。なぜなら、人間相互の愛情は人間生活の根本的法則だからだ」(トルストイ、木村浩訳、1989、『復活 下巻』、216-217ページ、新潮社)

 応援しています!!!

| akari | 2010/01/07 01:00 | URL |














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