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雉 (棄児も)鳴かずば(泣かずば)撃たれまいということわざから考える事

めんたる整理

関連ソース:ことわざデータバンク
http://www.sanabo.com/kotowaza/arc/2004/09/post_64.html

 泣く事について談義

 わたしのアピール力の無さについて夫から指摘を受けた事については、Mariaがタイトルの様なイメージを持ったらしい。わたしと夫の会話はそれなりに意味のある事で、全く違う育ちの人間同士の、全く違う解釈が対立点になり続けている現実でしかなかったが、それは実際ネットの世界でも起こっている事かもしれない。

 たとえば子どもが泣く事について論議した時に、

 わたしは子どもが泣く事危険につながると思っていたり、泣くことが意味のあるものとは感じられず今に至っている。

 でも、夫は子どもが泣く事危険回避の初歩であり、親や大人は泣く幼子を見るとそこに反応せざるを得ない、しかし彼は、泣かないで楽しそうに遊んでいる子を見れば、別に危機を感じる事はなく通り過ぎてゆくだけだと。

 泣く力はアピール力そのものであり、危険回避の為の救難信号であると思う彼は、泣かない子を見ると、そこに何かしらのサインを見出す事はできないので、そういう子はスルーされても仕方ないと思っている。

 「だからね、自然界では親を呼べない雛は外敵に襲われても仕方ないって事だよ」と夫が言うと。わたしはびっくりして「違うよ、自然界で鳴くって事は外敵に自分の居場所をわざわざ教える事だよ」と。

 夫婦がお互いを理解しきれないのは、こういう些細な定義の違いにも現れている。
 


 泣く事危険そのもの1

 わたしは泣く事危険性には、わざと泣かせてよろこぶ上級生の姿が重なるので、泣けば泣くほど事態が悪化していくのだと感じる癖がある。そんなイメージを施設を知らない夫に語る事自体、言葉に対して遅れている自分にとってとてつもない難関だった。

 泣いても世界は変わらない2

 泣く事が現状を変えるタメの訴えに繋がらないと思っている自分は、わたしが泣いたからといって世界は変わらないと思っていた。だから必要なのは感情表現じゃないと思っていた節がある。 

 泣かなくても責めないで
 
 一方Mariaは、泣く行為そのものをとても繊細に扱ってくれるので、泣けない(泣かない)ならば、それはそれで責めないでいてくれている。わたしは泣かない事で責められるとかえって怖場るので、わたしは「泣く行為の整理」そのものの必要にも迫られているが、ソウルメイトはわたしを責めないでいてくれる、それが有り難い。

 夫は一般の家庭で育った感覚を背景に「泣く事」を要求し、共感を求めるが、わたしは施設で育った感覚を背景に「泣かない事」を語るので、彼の中では感情の部分のソリの合わなさが増す様で、それについては申し訳ない気がする。
 
 リアルとネットの共通点

 しかし、気づいた事がある。夫婦の感覚の違いがそのままネットにもあり続けている気がするのだ。夫が言った事とほぼ似た事をコメントされる度に内心で驚いている。家庭の人に共通の見えない前提があるのかもしれない・・・と。
 
 わたしの記事に反応するゲストの方々のレスと、ちょうど同期している気がすると気づき、最近は、ゲストの方々が夫の様に見えて来たりしてそれはそれで興味深い。

 わたしは、リアル世界での夫婦の対立点を、ネット社会でどのように生かして勉強していけるか、脳の中身が足りないにも関わらず考えてしまった数日だった。

 無愛着であるという事そのものが、すでに問題であると考える為に、どう語るか?

 語りが戦略的になると、原初イメージの語りでは無くなる

 でもわたしはやっぱり、戦略的語り方を学びたいと思ってるわけじゃない。世間に理解してもらう為に、泣けないのに泣いたり、傷つき感が無いのに傷ついたフリをするののは、それはちょっとチガウ気がするのだ。それでたとえ、里親家庭に拾われたとしても、わたしは、心の中にわだかまりを抱える事になる様に思うのだ。

 

| ├ メンタル整理 | 11時03分 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑

どんなに栄養があるご飯が毎日提供されたって。毎日お寿司が出たって、いつもお父さんやお母さんが作る普通の、つまらないご飯にかなわない。こうしたものは身体の栄養だけでなく、将来困難に立ち向かう心の支え、骨になるから。必須のもの。

| akari | 2010/01/21 21:32 | URL |

捨てられた子には固定された人が誰も居ない

こっちも私はよく分かりました。すごくさびしいし、いないことが悲しい。お父さんやお母さんは、もう十分に育った後でも心の支えになって機能する。それがないというのはとても悲しい。そう、だからレイさんやマリアさんたちが訴えていることは、すごく価値があることだと思います。目に入りにくいこの悲しみは、すごく介入する必要があるのに、今だってこの苦しみについては、放置されている可能性がある。

| akari | 2010/01/21 20:10 | URL |

なるほど

 おはようございますakariさん

レイさんが書いてくれた中で私が一番想像し易くて、恐ろしいと思ったのは、やっぱり「毎年担当が代わる世界」。特に初期、乳児院の子どもが優しい保母さんに恵まれて、ゆっくり育って行く途中で、一年というスパンで担当が代わってしまう。また新しいお母さん役の人が登場する。

 どうやら、家庭の人がわかりやすい表現としては、

 捨てられた子には固定された人が誰も居ないという表現を使うよりは、

 捨てられた子が乳児院・児童養護施設で「保母が変わっていく事」と表現を使う方が想像しやすいのですね。
 
 結果的に、固定された人間は誰も居ないという意図で、誰も居ないと表現していたのですが、それでは意味が通じにくいし、想像しにくいのかな?と思いました。

 誰も居ないというのは、文字通り誰もいないという事につながりやすく、乳児院・児童養護施設で「誰も大人がいない訳ではない」ので、そこがもしかして、親のいない状態を表す表現としてはマッチングしないのですね、多分。
 
 akariさんが想像しやすくて恐ろしい部分も、夫と全く同じ箇所です。
 
 物心ついた時には、そうであった環境で育つと、当人は問題に気付けませんし、施設当事者という団体の人々も、捨てられている子の、こういう問題には触れないので、自分で語るしか無いのですが、語り方が難しいと感じています。
 
 やはり、誰にも見えない問題だから、自分でも見えなかったんだと思いますが、なまじ、元気で当てもなくひとりで生きて、消えてしまうので、テキストに残す人がいないのが残念です。
 
 ありがとうございます。

| Lei | 2010/01/21 07:05 | URL | ≫ EDIT

愛情を受けて育つってことは、たとえばキリスト教だと「放蕩息子の話し」がとても信じられること。「求めよ、ならば与えられん」って言葉が「どこか」で信じられること。一歩が踏み出せること。

| akari | 2010/01/20 19:31 | URL |

レイさんが書いてくれた中で私が一番想像し易くて、恐ろしいと思ったのは、やっぱり「毎年担当が代わる世界」。特に初期、乳児院の子どもが優しい保母さんに恵まれて、ゆっくり育って行く途中で、一年というスパンで担当が代わってしまう。また新しいお母さん役の人が登場する。こんなことが繰り返されていたら、そりゃ無気力になる。毎年新しいお母さんが登場して、初めからやり直しなんて。その結果を自己責任なんて、それは酷いと思う。責任はそうした現状を放置した大人にあるに決まってる。

| akari | 2010/01/20 19:23 | URL |














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