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何故自分の感じ方を自分で信じる事が出来ず、むしろ偽りだと思いたいのだろう

めんたる整理

 #今日はいつもより、さらに理解不能な記事を書きます。たぶん試行錯誤のメモ書きっていうのは本来は他人に見せるものじゃないと思うけど、頭が悪いなりにずっと考えていた事をテキストにして表示すると、何故か心だけで考えるよりも冷静になれるような気がする。施設育ちは相談相手がいないから、けっこう一人でブツブツ考えているのではないかと思っています。めんどうな記事は読み飛ばして下さい。
 



 理性感覚の優先順位

 施設にいた頃から理性を保とうと思っていた筈、今、社会でごく一般的に生きようとしているわたしは、自分の感覚をきちんと文章レベルまで試行錯誤して、理性に受け渡そうと思っている。

 理性のやるべき事は、もし感覚の声を受け取れば、あとはテキスト化するか行動化するか自らフローを決めなくちゃならない。だけど決め切れ無かったのが最近までの自分だと思う。

 ごく普通に考えたらありえない様な感覚に陥る事がある場合、理性を優先するとバカバカしい気持ちになる。そんな時、どうしても自分の感じ方を否定するしかなくなる。

 だけど理性だけを優先するとそれは自分の人生をずっとコントロール・抑圧し続けてきたのだから、昔と何も変わらない。だから、理性と感覚が手を組んで、何か答えを導かなくちゃいけない・・・。それが今の自分の状況だと思う。

 でもその為には、何を語っても何を感じても「安全な領域」が必要なのだと思う。

 とは言うものの・・・

 ・・・今は発信したい事が何かあるから、一般の世の中に生きる者として自分の感覚から受け取った「声」を理性を中継して文章として残したいと思っている密やかな自我がいる

 もし理性を押しのけてでも感覚が優位であり続ければ、わたしはいちいち語る言葉もないし、この世をまともに生き延びる事は出来ないし、さらさら生き延びようとも思わないだろう。

 すべては感覚の仰せのままに、わたしは感じるままに、感覚の奴隷になるだろう。

 だから、わたしの理性はわたしの中枢部ですべてのコントロールを愚かなみそに代わって命令しているようなものである。理性はにあるとは限らない、理性は自分の働きの悪いみそを叱咤しながら、が少しでも活性化するように、以外の場所で命令する。

 そんな自己イメージがわたしにはある。

 感覚から乖離していた子ども時代

 感じている感覚を理性で考えれば、確かにそんな事はありえないと思える。だけどそのままでは小さな子へ虐待連鎖をしてしまう。自分の感覚を無視して、理性に受け渡さなかったツケが、虐待連鎖だろうと思う。

 小さな子へ虐待連鎖しない為に

 「なぜ人を殺してはいけない?」と質問した子がかつていたらしい。人を殺してはいけない理由を本気で聞いているんだと思った。でも戦争で味方も敵もない世界で「人を殺してはいけません」とだけ唱えるのには限界があるとおもう。しかし平和が保たれている事が前提の世界でそんな質問をしたら、その子自身がバッシングを受ける。

 一方

 暴力のリスクの高い児童養護施設ではしょっちゅう「なぜコイツらをぶん殴ったらいけない?」と言ってる子がいた。

 ぶん殴られ続けた子は、ぶん殴られない事の正当性を知りたかったのではないだろうか。殴られない正当性を知った後で、自分が幼い頃から殴られ続けた事は間違いであったという事を、自分自身が実感して知りたいのではないのかと今は、なんとなく思える。

 しかしその吐き出し方には落とし穴がある。ぐ犯である彼らの行動化は結局は、何の罪もない小さな子をツール化する事でもあり、彼らの表現は小さな他人を利用する限り、新たな被害者を作り続ける事になる。

 あの頃は恐怖や怒りで理解できなかったけれど、その愚かな(当時はそう思った)質問をしたぐ犯少年は「なぜ僕は殴られても我慢しなちゃいけなかったの?」と、本当は言いたかったのではないかと思う。しかし、加害者になった瞬間から、その、彼の問いが何か、まっすぐ届かないように思う。

 なにしろかつての小さな少年は、すでに成長し切ったでかい少年となり、今では施設の中で小さな子をいじめ倒して吠えているわけだから、彼はかつての幼い被害者ではなく、すでに、施設内の加害少年でしかないのだ。

 もし被害者として語りたいなら、彼にとっては屈辱的な無力な状態へ戻り、きちんと自分の事で泣いてあげるしかなかったと思う。しかし家庭から保護された施設で、メンタルケアなんて無く、結局は被虐を吐き出しきれないまま、施設内は、彼らのお狩り場になっていたのだ。

 施設にはメンタルの整理もできず、片意地張った状態のぐ犯が多すぎて、施設職員はいつも翻弄され、小さな子は被害を受けていると、わたしは(きっと)感じていた。やられる側はたまったものじゃないのだが、やられる状態に慣れてしまってもいた・・・。

 虐待連鎖をしない為に、自分の事を整理するというのはとてつもない厳しい孤独な方法だ。誰かに救われなかった自分を語るのだから・・・。

 わたしの場合は、物心ついたら捨てられている状態だという事らしいので、少なくとも他人を利用する必要はない。単に個人的に捨てられていればそれが表現、行動化となっていく。しかし虐待された子はなにしろ相手が必要だから、捨てられた者よりも、周囲に与える影響は果てしないのだと思う。

 以上。
 

| ├ メンタル整理 | 09時09分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

あなたのコメントを・・・

 SUPER-EGOさん。

 あれ、コメントを消されたのですね・・・。あなたのコメントを受けて、新しいエントリを立てようと思ったのですが・・・。

 引用文として利用させていただこうと思ったのですが、引用はやめときますね。

 でも、とても考えさせられるコメントでした。自分でも引き綴き考えます。ありがとうございました。

| Lei | 2010/02/16 00:34 | URL | ≫ EDIT

はじめまして

 SUPER-EGOさん、はじめまして。

 >児童養護施設は、親から虐待を受けた子という考え方だけでなく、その虐待を施設内に持ち込む子でもあるという考え方も同時に持たなくてはいけない気がします。

 乳児院や物心ついたら施設にいた子らは、虞犯の多い児童養護施設では、丁度被害者の時期の真っ只中を過ごしているんだと思います。

 でも、ぐ犯の少年たちにとっては家庭での無力な時代は過ぎ、施設では力を取り戻す場所として、力を振るう場所として無自覚に位置づけているように見えました。

 だから、時間差があるんです。家庭の子は施設で症状を出し、乳児院・物心ついたら施設だった子は、彼らの虐待の後遺症や症状の怒りをまともに喰らうわけです。

 そして施設で虐待を受けた子は、社会に出てから変な症状に絡め取られてしまうが、捨てられているので自己責任。施設で受けた虐待の責任を誰からもとってもらえないし、虐待を受けてなくても、施設だけで育った問題を誰にもとってもらえないです。

 すべては自己責任ですから。

 この部分も、きちんと解釈して置きたいと思います。どうもありがとうございました。

| Lei | 2010/02/15 09:59 | URL | ≫ EDIT














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