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わたしは「知恵遅れ」それとも「発達障害」なの?と問い続けていた

養護施設にいる間の問題

 問題なし児童の行く末

 ある施設出身者の方から言われた言葉は衝撃的なのに、わたしは反応出来なかった。「思考停止の羊の群れ」というすごい表現を言われた意識があるものの、まだ言い返せない。悔しいような、虚しいような気持ちなのは、確かにその人の言う通りだから。その人は少なくとも・・・まだ、わたしよりもずっと、人間なのだろう・・・。

 人生の一度として、人間らしく感じられずに生きれば動物と人間とのボーダーラインに抵触すると思ってる。里親という言葉は人間だけに使われないと、本気で自分を動物と誤解する一部の、わたしのような者がいる。信じなくていいけれど・・・。里親に引き取られる事がそのまま、人間の子どもとして社会的に正しく認知されゆく道に感じられるから。

 施設の集団生活しか知らないわたしは確かに思考停止の羊だし・・・いえ、思考して良いとは知らなかったのかも。


 社会に初めて出て電車の乗り方知らない、知らない人の車に乗ってはいけない事も知らない、バナナをちぎってレジに並んだ、地下駐車場に車が入るとパニックになる、などなど、およそ文明の進化した世界の住人ではない。

 その時点でもう19才だったのに、いかがわしい格好は平気でするし、同時に複数の人と付き合うのも違和感ななかったし、それでいながら自分では今まで生きて来た通りの精神なので、とても真面目だった。でもいくら生きる姿勢が真面目でも、生き方が不真面目にしか見えなかった・・・。

 ノウハウが無い、社会での情報を使えないという事は、社会では「知恵遅れ」というジャンルに入れられてしまうのに、わたしはそれさえ知らなかった。

 社会に出たら、施設時代とは違い、もう社会の文化・文明を当然のモノとして生きれる社会的な年齢がある。社会にでて何も出来なければ、その記事を書いても嘘つきか、さもなくば、知恵遅れとなるが、知恵遅れと発達障害はとても似ていて、ボーダーになってしまう。

 だから、わたしは発達障害だったのかを過去へ戻ってもう一度確かめたい気持ちではある。あの頃のわたしは日々、おそらく動物っぽく放置に慣れて生きてたみたい。当然社会の中での一般的な文明に対する知識はなかった。そのくせ、何故か、いざとなれば路上で死ぬだけという感覚、それと同時に施設を生き延びた達成感だけは持っている・・・。

 でも・・・自己責任という言葉は耳にタコだけど、自分に責任を取れない自分もいる。どうしてこうなのか問題化した事がなく、ケアも治療も受けた事も診断もないので、自分の課題に気付かず生きてしまった。でも実は知的=チテキと施設で他の児童からニックネームを付けられただけであり、全く診断を受けたのではない。

 施設でも他の子から揶揄されるほどだったが、治療へ繋げてもらった事は一度もなく、問題化しないので結果的には発達障害についての診断や知的障害の診断は無かった。

 発達障害は自己責任なの?

 で、自己責任、その範囲は?

 わたしを医者でもないのに発達障害だと言ったのはソウルメイトだった。後にも先にもそのように言った人は誰もいなかった。わたしは、社会的な年齢にそぐわない愚かさを露呈しながら社会を歩き続け、ソウルメイトに出会わなければ離婚され、路上まっしぐらだった。

 発達障害の問題は、その時に必要な情報を脳が刺激をきちんと受けて成長出来る環境である事を前提にしてからでなくては語れない。知的障害の方を行きがかり上、とてもわたしはよく知っているが、彼らの問題は親がいない事が問題ではなかった。わたしの知る彼らは親が居るとか居ないとかが問題ではなく、知的障害というその課題にただまっすぐ向かっていた。

 でも、

 わたしはもし、施設時代にどれほど才能にあふれ頭が良かったとしても、わたしはわたしの考えがいかにつまらなく、世界に何の影響も与えるほどじゃなく、捨てられた人間はまず自分を愚かであると認識せねばならず、その上で成り上がろうと思わず、そっと静かに生きるべきというメッセージを常に受け取り続けているうちに・・・

 それでも勉強が大好きで、何とか前頭葉はやめた部分を、脳梁のどこかが残ってて、わたしは言語を駆使する事で死にかけ前頭葉にメッセージを出し続け、少なくともわたしはまだ生きていると主張している。

 わたしはバカだから、バカとしてしか生きられず、その結果、バカなりに社会で困っているに過ぎず、っでもそれは、誰かに責任を押し付けるべきでなく、自己責任で電車の乗り方も食べ物の買い方も知っておくべきで、前の人がやっているのを見ればすぐに理解出来なきゃ話にならず・・・。

 でも、バカだから自己責任も取れず、ここまで生きてきてしまった。
 
 わたしの脳はどうせバカだからというメッセージを受け続ける事で、あまり使い物にならなかった。でも今、ソウルメイトと出会い、わたしは物覚えが良くなり、いちいち忘れなくなり、それはそれで困っている・・・。

 困っているが、人として成長するには施設の大勢の子ども集団の誰かとして生きてきたわたしが、だんだん、ひとりの人間として、集団から分離されゆきそう・・・。

 未分化から、分化していく事で、個体化しそうな気がする。群衆の中のその他大勢の中にいると考えなくてすむのは確か。でも、それでは人間として情報の溢れる文明化された社会の中で生きる事ができないのだと思う。


|  養護施設にいる間の問題 | 15時29分 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

ふくらいさん(TT)

 福来さん、ありがとうございます。

 施設で真面目な態度は社会では単なる無知と無愛着
 施設で集団で生きる脳は社会の中に自己を見つけられず
 絆づくりは、施設でいうところのきずな的処遇だった
 
>無愛着=愛着障害って

 おお、そうですね大事な事です。わたしの言葉足りずを救われました。そう、無愛着は愛着障害の症状の一つです。

| Lei | 2010/03/25 11:03 | URL | ≫ EDIT

「自己責任」は責任転嫁なのでは

Leiさんが「自己責任」と使う時とても言葉で言いつくせない思いが湧きあがります。(あ、別にこれは語るなってことじゃないですからね!)
また施設の方、施設出身者の方がLeiさんに対しこれを使われる時、そして世間一般の人が使う時、ものすごく空しくなり大変憤りを感じます。

無愛着=愛着障害って、施設で幼いころから過ごせば自然になってしまうものですよね?それを自己責任なんてそんな、とんでもない!

「障害」って施設だったら障害でもなんでもないのに、世間に出たら障害って、それほど非人道的な文化でないことを施設はしてるってことですよ。施設遺棄のまま育つってことは、それほど文化じゃないことじゃないですか。世間に出てものすごい世間知らずなのも、無愛着と呼ばれることも全然Leiさんのせいではありませんよ。

親が伝達することの情報量の多さって、すごいものです。それが初めからないのはものすごいハンデです。そのハンデを自己責任なんて、問題のすり替えもいいとこです。問題は施設を出た後でどれほどその子たちが生きていけるか、のはずです。それが児童福祉のはずです。

施設を出た後にこんなに苦しんで世間との大きなズレを、たった一人で修正していくなんておかしいことです。それほど人道的でないことをしてきたのは施設ですし、日本の社会です。Leiさんは全然悪くありません。

もちろんだからと言ってLeiさんの苦労が楽になることはないのかもしれませんが…
自己責任と常に言われ、ここまで置き去りにされそれもまた自己責任なのですね。どこまで戦わなくてはいけないのかと、Leiさんたちの置かれている状況を再認識します。

やっぱりLeiさんの苦労は相当なものだと思いますし、これからの子どもたちにこのような苦労はしてほしくないです。親がいないことは大変重いハンデであり、「自己責任」は責任転嫁だと感じます。

| 福来 | 2010/03/24 20:58 | URL | ≫ EDIT

正直言ってレイさんはそんじょそこらの大卒の人間よりよっぽど考察力も、洞察力もある。

| akari | 2010/03/23 18:54 | URL |














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