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戦争孤児というのは戦争の被害者なのだという事を知る

めんたる整理

 あった筈の日常が無になる

 戦争特番の時期とお盆が重なると不思議ワールドがそこに出来上がるのは毎年の事・・・でも、夫の家庭の戦前・戦中・戦後を生き抜いた人々の言葉の印象としては、重い話の生き証人の話を聞かせてもらっているのだという感覚になる。時々録音させてもらおうかと思ったりするくらい、内容が重い。


 いつも思うが、姑は”戦争孤児”というキーワードに何やらとても悲しげな反応をする。戦争によらず、姑目線では自ら天涯孤独宣言をしている現代嫁のわたしは、なんて甘えた若造に見えるだろうか、という程、自分勝手に孤独なわたしに対する怒りと相まって、声も何だか強く叱責するような印象がする。

 でも、わたしは姑が何を言いたいのか少し分かる気がする。戦争で一切を失った戦争による被害者である孤児と、平和な時代であるにも関わらず、親も親戚も引き取り手も無く、自分で家族を探しに行く事もせず、今もひとりであるわたしと、一緒にされたくないのかも知れない。

 「昨日まであった日常が無くなったの、それが戦災孤児なのよ」と彼女は噛んで含めるようにいつも言っている。夫は、そういうツマラナイ昔話になると、さりげなく席を立ち、いつの間にか居なくなる。夫は親が年をとってからの子供だったので、彼には、親の話は遠すぎるらしい。

 一方、わたしはテンションが上がった姑を前にして、考える。

 戦争孤児と、物心ついたら施設だった自分とは、姑目線では違うのだと。わたしは姑の昔話を聞くのが割と好きだと気づいた。姑の話を聞いていると、年配の施設出身者たちは、今頃、やはりひとりで独居中年や老人になっているのだろうかと、ふと考える。

 施設育ちと言っても、確かに施設からは「いわゆる孤児はいません」と言われるが、それは「戦災孤児はいません」という意味だと、わたしなりに捉えるようになった。

 現在の孤児は、失ったのではなく、物心ついたらすでに誰もいないのだ。姑の話を聞いていると、バラバラのピースのような事が、ゆっくりと埋まっていく巨大なジグゾーパズルを前にしている気分になる。

 現在の孤児という捉え方

 わたしは、空襲で家族を失った児童ではない。わたしは平和な時代に生まれ、同年齢の子に家族がある事が最低限保証されている時代に生まれた。でもわたしには家族が無かった。家族が無い事を知らないまま、大人になり、大人になってから自分の問題に気づいた。

 わたしは日本人というアイディンティティも、途中から日本人であるという事に気づくほど発達が遅れていた。日本人である前に、猿だという感じでもあった。黄色い猿というイメージが今もあり、少しでも頭の良い部分を見せると人間だとバレるような、嫌な気分が残っている。

 現在の孤児の感覚としては、自分がどこの国に属しているかさえ、人間か猿かさえ分からない程、混沌としているのではないかと感じている。

 初期化しない努力

 その状態に、意味付け、関連付け、する大人が必要だと思う。捨てられて放置された子どもは空っぽのパソコンみたいなもので、必要なOSを入れて、必要なソフトを入れ、関連付けしないと動かないし、挙動不審になる。

 現在の孤児たちは、関連付けされていないソフトを持っているパソコンのようなもの。時々初期化しないと立ち上がらない。でもそれは元をたどれば、きちんとしたルートを経てインストールしなかった操作があっての事なので。

 戦災孤児や孤児院という名称は薄らいできたし、みなしごハッチはみつばちハッチというタイトルになったが、でも、現在も孤児状態(親が生きているといるが施設に入れっぱなしで、育てる事が不可能)の子ども達の現実と現実に即した、次のステップへ向かいたい。

 ぬくもりに質を求める努力

 温もりに質を求めなければ、どんな温もりもやはり温もりだから、十分に捨てられている寒い体温の児童にとって贅沢なものだった。

 でも、そのような子どもも、たった一人の人と絆を作れば、その温もりに「質」を求めるようになる。

 温もりと肌の匂いと幸せな気持ちというデータを持った子どもは、大人になった時、優しく安全な温もりを、自分の子へ伝えようとする。

 戦争により、いきなり孤児になった人たちは、ぬくもりの記憶を持っているから、わたしなりに思う事として、彼らは、わたしと違い、子を捨てたりネグレクトしたりしないと思った。

 わたしに子が居ないのは、わたしはひとつの命に責任持てないからだと思う。だから子どもを作れないのではないかと感じている。だから施設全部育ちは、そこのところ、整理する必要がある。

 具体的な人も見つからないのに、わたしにもきっと誰かいた筈というファンタジーを持っている限り、自分が大人になった時、性交渉の果ての、その新しい命に「親」としての責任が持てないと思う。

 親になるという事は自分の子ども時代の繰り返しじゃない、という事なのだ、きっと。


 温もりは、安全である必要があるし、質を求める必要があるのは、子が親になった時の為に必要だからだと、わたしは思うようになった。
 

| ├ メンタル整理 | 07時17分 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

電話が切れてる

Leiちゃん、日曜日から連絡できない。

| maria | 2010/08/23 22:54 | URL | ≫ EDIT

広い空さん

 おはようございます、広い空さん。

>早速読ませていただき、2006/10/30の恩寵園の件の記事までですが読み終えました。

 ドキっとしました。

 実は過去記事は書きっぱなし、殴り書きぱなしという感じです。昨日、Mariaと会った時も、広い空さんのコメントに似たような事を言われて、自分の心理がなんとなく丸裸になった気分でもありました。

 多くの人がブログで文字を書いている日本だそうですが、日本人の筆まめさは、かなりのものみたいです。

 シャイな国民性というのもあるのでしょうが、秘匿性もあるように思います。わたしはどっちかというと、ぶっちゃけ系だと思うのです。

 その瞬間瞬間は、本音で書いているけれど、時系列として並べてみたら、やっぱり時間の経過があるのだと思います。

 わたしもそうですが、施設全部育ちは特に、時系列があまりに短い、固定された相手の過去の記憶になる程の存在ではない、通りすがりのような関係しかない、という短い時系列をリセットしては繰り返し、また、新たに始めるという、独特の心理ではないかと思いました。

 12年かな?ソウルメイトに固定された関係の人間になってもらい、関わってもらい、思った事は、乳児院に三年も居る現実は長すぎるのに、保母や職員との関係は、一瞬で終わる。
 
 乳児からすれば、長い時間をかけて育てていく愛着時間を、光の矢のように過ぎ去っていくので、脳に残らないのではないかと思います。

 これは、わたしは乳児院出身ではありませんが、固定された相手が居ない事や、集団の養育環境にあった事の、体感的な感想です。

 わたしが、少し何かしら成長出来たように見えるとしたら、それはおそらく、固定された相手との出会いとそのつながりの維持が出来、さらなる要素として、それが時系列的に提示できたから?思います。

 成長の記録みたいなものが家庭にはあり、夫も小さな頃からひとりの大人から見つめられて育っていました。時系列を見続ける人が子どもには必要なんですね、しかも、施設的で扱われる児童票でなく、親と子を繋ぐ成長の記録が必要なんですね、

 その記事が、次の命にバトンタッチされやすいと思うのでした。夫を羨ましいと思いましたし、姑がわたしを単に嫁としてしか見てない事も分かっていても・・・彼を育て切った姑を尊敬してます。

 夫も、ソウルメイトも・・・。ただ、その為に、自分の過去が何だったのかという、事への葛藤も出てきましたが、それはまた、別のテーマですね。

 わたしはわかった。育てる気のないわたしの生物親と、何かと理由を付けて育て続けて、彼女の子の命に責任持ち続けた姑とは、ステイタスというか、何か、格が違うと感じたんです。

 ただ、それはわたしのような施設に捨てられた子供たちの捨てられっぷりをハッキリさせる意味でしかなく、そこは頑張って整理しなきゃと思ってます。

 でも、腐らないように頑張ろうと思う。


 ありがとうございました。

| Lei | 2010/08/21 12:01 | URL | ≫ EDIT

こんばんは、遅くにすみません。最新の記事に対するコメントじゃないです、お許し下さい。実は、Leiさんのブログの記事を最初から読みたいと思って一番最初のページを探っている日々が続いていました。いつも家族が寝静まってからや、子どもが寝ている時を狙っているせいか、なかなかたどり着けなくて(ひたすら「次ページ」ボタンを押す単調な作業の繰り返しの為途中で寝てしまったり、気になる見出しがあるとそこで読んでみたりしていたので…)、やっと今日最初のページにたどり着けました!早速読ませていただき、2006/10/30の恩寵園の件の記事までですが読み終えました。まだほんの少ししか読んでいないのに言うのもおかしいですが、なんだかLeiさんの成長というか、その頃はまるで一、二歩先を探って、御自分の心の内や、方向性を見ているような感じを見受けましたが、今ではまだ整理されている最中だとは思いますが、漠然としたものの形の輪郭が少しずつ濃くなられて来たのではないかな~と感じました。というか、すみません、かなり生意気口調になってしまいました!読ませていただいている分際でホントに失礼しました。…でも、随分長い間御自分と向き合い、考え、親と暮らせない子どものことを見つめてきているのですね。覚悟と勇気がいったことと思います。Leiさん方の想いが少しでも世の人々に伝わり、形になってくれることを応援しています。同時に私自身の方向性を見出していくために、引き続きブログを読ませていただきます。では…☆

| 広い空 | 2010/08/19 07:26 | URL |














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