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自分の存在証明を自分自身で探すための旅は永遠に続く

存在証明と存在理由

 存在理由をかき集めても

 「誰もいないけど、しっかりやっていく」

 「親の顔も見た事ないが、産んでくれただけで感謝する」
  
 「命があるのは施設のおかげ。施設が無かったら死んでいた」

 自分が生きている事の存在証明をどうやって確かめれば良いのか、それも知らず、誰も自分を覚えていない世界を生きる。親から捨てられても逞しく生き残った命である事だけが存在証明のように・・・。

 わたしはかつて、そんな無存在な立場でものを考えていたし、他の施設育ちはそんなものだと感じていた。
 


 夫は自分の存在理由は子どもを作る事だと言うが、わたしは子どもが出来てしまった不幸により、わたしは存在を無かった事にされたと感じてしまう心のクセを持っている。

 その感覚をわたしはおかしいと思った事がなかった。望まれない命なら最初から作るべきではないという非言語的メッセージを、社会から受け取っていたと思う。
 
 仮に「産んでもいいですよ」と言われても意味を理解しづらいいだろう。物心付いたら施設養育先にありきだった自分にとって、新しい命の意味がうまく理解できない。ここらへんは、ぶっ壊れてるかもしれない。

 わたしは結婚後、産まないと決意した事はないが、家庭を知らない為、子どもが家庭で生きている図が想像できない。その結果、おそらく子どもがいない家庭になった。

 今生きている自分の命について

 社会は子どもを乳児院に入れるたやすさを作り、施設養育が当たり前となっていた。しかし、親にも事情gあり、それは仕方ないとしても、当の子ども達は捨てられたまま、里親家庭に行けず社会から見捨てれた子ども達として、細々と命を繋ぐ。

 命はどういう形であれ救われたから、施設だけで育つ事を感謝するというのは、この日本で生きている限り求め続けられ、内心ではわたしは齟齬を感じていた。

 幼い頃から「アフリカの貧困の子ども」「戦地の子ども」を引き合いに出され「あなたたちは幸せなのですよ」と言われる。わたしは自分の一食分を食べずに、そのような子ども達に現実的に寄付できるシステムがあれば納得出来たけれど、そうではない。
 
 自分よりも不幸な人を想像しながら、ご飯を食べなくちゃいけなかった。そこには、根本的な相互扶助の意識は無かった様に思う。食べられない子の話を聞きながら食べる事で、施設では不幸な発展途上の子よりも食にありつけるという意識が強められていた。
 
 しかし日本の一般の家庭の子は、何も極端な海外の事例を出さずとも、固有の親から愛される幸せを享受していたし、その事で、いちいち特別な感情を持つ必要もなかったらしい。

 施設の子だけが、今生き延びている事に言い訳をするように「日本の施設で生きる自分達よりも不幸な子の事例を探す」のは、どこか強迫観念的で、自分の問題にまっすぐ向かう道を阻害されてしまう理由のひとつだと思う。

 権利を守ってもらってこその義務

 何故、安全に守られる権利を先に求める自分がいるのか・・・。

 いつか社会で自立した大人として義務を果たせるまでは、安全に守られて生きる権利を主張したい。安全である固定された大人との間に愛着関係を作り、やがて地域にも愛着を持ち、国にも愛着を持てる人間になりたいから、権利を主張したい。

 いつも施設では、権利を主張する前に義務を果たせと言われていた。その義務を果たせるまで、愛着を持てる環境で子どもを育てる事こそが、先にやるべき大人の責任ではないかと思う。
 
 大人の社会が、捨てられた子ども達に対しての無関心を続けている現状の中で、義務を先に果たせという事の意味が今もうまく理解できない。でも、その意味するところが悪意でない事を望む。

 わたしは、わたしの私怨の為に記事を書いてる、けして他の子の代弁者じゃない。ただ、わたしはこの国で生きている以上、もっとこの国に愛着を持ちたい。

 人って、産みの親だけを求めるものじゃないと思う。育ててくれて日々を過ごしてくれた人を育て親と感じるように思う。そういう人に一度で良いから子ども時代に出会いたかった。

 だから、これは施設出身者の代弁じゃなく、過去の自分の代弁だと思う。

| ├ メンタル整理 | 13時45分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

施設内にもある、差別意識

レスありがとう。

 最下層の状態にある子ども達という定義は、自分が施設の中で実感していた感覚を元にしています。

 施設内でも、家庭虐待の子には親がいるので、親が居ない、遺棄された、放棄された長期入所児を、低い位置にある者として見ていた様子が感じられました。

 彼らは自分が親から虐待をされた事に向き合いたくない時「親から捨てられた、親がいないお前らより、オレの方がマシだ」と言いました。異口同音ですが、彼らは虐待を受けた傷を、親のない子を見る事でごまかしているようでした。

 その一方で、家庭虐待の子の傷の深さを家庭を知らないわたし達にすり込むのは、職員の主な仕事のように見えました。

 たとえば、上級生に暴力を受けた際も「あいつは家庭で傷ついている、分かってやれよ」と、寛容と受容を被害者である親のない児童に求めました。

 ただ、それが普通の風景だったので、おかしいとは思わなかったのも事実・・・。

 一番傷ついているのは家庭虐待の子だけど、一番見捨てられているのは親がいない子なのだと、わたしは思わされていました。

 今はもう、一度も家庭で育った事が無い、親がいない、乳児院・施設だけで育つ子たちは、社会による暴力を受けたのだと解釈しています。

 いつまで経っても、わたしは施設内家庭育ちの人々に寛容にもなれないし、受容する事も出来なかったように思います。

 心が狭い人間だといわれそうだけど、ホンネなのです。

 施設内最下層の親のいない子たちは、海外のストリートチルドレンや、内戦などで親を失った子たちを引き合いに出さなければ、自分を保てないのかと思うと、あまりに虚しいです。

 人の不幸を聞きながら食事をするのは、とても虚しい食事だと思います。

| Lei | 2010/10/14 07:20 | URL | ≫ EDIT

上見て暮らすな、下見て暮らせ

親のいないお前たちには権利なんてない。
権利、それはな~、守ってくれる大人がいる子のものなんだ…

訳知り顔の職員が、気の利いたセリフでもいうかのように、得意そうな顔で云う。

 子どもの権利条約なんて、養護施設の子どもには適用されない。家庭で育つ権利なんて、家庭で育つ子どものための権利でしかない。

 そして、施設の子は 「上見て暮らす、下見て暮らせ」と、飢餓に苦しむ子どもやストリートチルドレンなど、海外の子どもを下に見て生きることを求められる。

 この国に愛着を持ちたくても、この国の最下層の子どもたちは、海外の貧困の子どもたちと比べなければ、自分に「誇り」が持てない。この国に生まれた「幸せ」を確認できない。

 自分より「不幸」な子どもを見つけなければ、自分の「幸せ」を確認できないなんて…

 この国の施設で育つ子どもたちは、なんて不幸なのだろうと思うわ。

| Maria | 2010/10/14 03:25 | URL | ≫ EDIT














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