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施設には支援品や善意の品は送られて来たが、それを特に贈り物と意識してなかった

めんたる整理

 #善意の品は善意の品でいいと思う、一人の人間が”何かいい事?”をした時に、マスコミが追いかけまわしたら可哀想だとは個人的に思っている。

 ・・・けど、子どもに必要なのはたった一人の大人との出会い。支援する人は、それを与えられない事をも同時に知ってる社会の少し理解ある大人として、がせめて自分の気持ちを清算したくてお祈りに近い気持ちで、物品を置いていってるように(一方的だが)見えた。

 それは福祉という概念が定着している社会の日常に浸透している支援活動の意識とはなんだか違う、日本に古くからあるような、どこか申し訳なさに近いような・・・。顔を伏せて魂が静まるように願う人々の感覚のようなものを、感じる・・・。
 
 いつかそれが、本当に支援とか寄付というものが、もっと社会の中でごく自然に行われるといいのにと思えた一件でもあった。

 


 ”善意の支援の品”はあきらかに”贈り物”とは違う?

 元施設児童は過去に支援品が施設へ届けられる度に、覆面&匿名の善意の人たちにお礼状書きをしていた。

 覆面というか、匿名やそうでない人の、関係性を築きようがない相手へのお礼状書きは、今考えても全てがファンタジーボンドを創作しているようなものだった。

 せっかく書いたお礼状が「レポートみたいなので、もう一度相手が喜ぶ顔を想像して書きなさい」と言われて落ち込み、相手を想像できないので、図書室へ行き、モンゴメリーの小説の中のおばさま方や素敵なおじさんを、何とか作り上げて、もう一度、感情に訴えるような文章を提出した。

 相手が見えないのは慣れているが、文章が自由自在に操れる気持ちになるのは、単純に面白かった。だけど、相手が見えない事で支援に慣れているというか、そんな感覚だった。支援慣れというか、支援に対してすれっからしな感じが児童の間にあったと思う。
 
 施設にまつわるお届け物は支援や善意の品であり、一般家庭での顔見知りの子への「贈り物」とは違うという感じが今はする。だけど贈る側は「支援品や善意の品」とは言いたくなくて「贈り物」という表現を望んでいた。

 施設に送られてくるモノには消耗品が多かった。食べれば消えるケーキだったり、遊べばすぐに壊れて無くなるおもちゃだったり・・・なので、すぐに消えてしまっていた。誰が送ったかわからないモノは施設で一瞬のうちに、壊れたり無くなったりしてしまった。支援品に対する、子どもたちのそれに応じた反応だと思う。

 家庭では消耗品と愛着の品は分けているらしい

 この騒ぎに夫は意外とわたし以上に冷静なコメントをしていた。

 夫は「ランドセルは、顔を隠して贈るには難しい贈り物じゃないかな。俺にはそんな勇気はないなあ、受け取った子の事に責任持てないからな」と言っていた。

 一般の家庭では、継続する関係性(家庭の親子だったり、親戚だったり)だからこそ、その繋がりに込めた思いや意味があるのだと・・・。そのランドセルはその子だけのモノであり、使い終わった後もその子が大人になっても大事に持っていてほしい品だそうだ。

 #現在、施設ではランドセルは、今はひとりの子がひとつのランドセルを愛着を持って、施設を出ても一緒にダンボールに入れて持っていけるのか、そこが分からないから、ちょっとコメントしづらいが・・・。

 そういうタイプの贈り物は消耗品ではなく、大事に一生使っていくタイプのモノが相応しいと彼の家庭では位置づけられていたので、他人の、顔も知らない施設の子に贈る気はしないらしい。


 自己満足でもいいけど、自己満足ならそれに相応しい軽い感覚のモノで良いという話なのだろうと彼の言葉を聞いて思った。


 何を感じて施設の子にランドセルかは分からないが、きっと個人的な理由に委ねられているので、これ以上の詮索は無粋なのだと思う。


 支援品で生きているという意識

 支援品は、福祉施設などに支援の目的で届けられる。基地が近かったので、彼らはもっと分かりやすい支援の態度をとっていた。彼らが去った後には玩具が残されていた。

 「メリ~クリスマス!」と朗らかに、その日ばかりは軍人もサンタクロースになる。その姿をわたしは何故かすでに理解していた。彼らは不幸な子どもたちをごく普通に支援していたのであり、ボランティア活動に対しては、ごく一般的な行為であるのだから・・・すべての品はその名残り・・・。
 
 一般家庭で育った人と話すと、同じ国で育ったとは思えないほどの意識の違いが色々な日々の生活活動の時に現れる。支援には慣れていても、たった一つの贈り物をもらった事のない施設育ちの心理を持つ自分は、夫が受け取ってきた絆のある人々の力は、彼の生きる力になってきたんだなあという風に感じている。

 なのでランドセルを買わずにすみ、浮いたお金は子ども達の消耗品を買う事になるのだろうと、想像してる。 
  

| ├ メンタル整理 | 11時09分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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