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不幸自慢というよりむしろタブー視される養護施設出身者の体験

rosemary

コラム

 比べる癖のある人は施設出身者の吐き出しを

 「不幸自慢」「悲劇のヒロイン」などと言う。

 養護施設にいると職員が

 「世界には飢えている子らがいるんだぞ」と言う。

 おなかの痛い子を頭の痛い子と比べるような事をしている職員。対処も治療もケアもそれぞれに違う子を比べて、どちらがマシという。

 ヤフー時代から時々言われていたのが「不幸自慢」という表現だった。これが長いこと意味が分からなかった。何故、不幸と自慢が結合するのか。

 ふだんから児童養護施設で育ったことを隠し通して生きている自分としては、施設で育った事は隠す事ではあっても自慢になるような事ではない。自慢をするにはそれなりに打ち明ける必要が出てくる。わたしは近所に言いたいと思わない。そのような過去をどうやって自慢できるだろうか。
 
 その辺を夫に聞いてみると

「確かに、施設で全部育つと不幸を通り越してタブーになってしまうよ」と言った。
「不幸そうな話題を読むとすぐに反応するのは、それは単に家庭育ちの条件反射でしかない、だんだん読んでるうちに、養護施設の子の話は、ちょっと違うな、むしろタブーだという事に気付いていくよ」

 そして、

不幸自慢という発想は他人からなぐさめてもらいたい寂しがりやの家庭育ちの心の癖だろうな」と言った。

 たとえば、一般家庭では泣けば親が飛んでくる。痛がれば親が優しくしてくれる、病気になれば親が付きっ切りで側にいてくれる。(幼い頃、仮病を使って親に甘えた彼は、その気持ちがよく判ると言う)

 だから悪い出来事は良い対応をしてもらえる事というスリコミが幼い頃に出来た家庭育ちは、自分の方が痛んでいる事をアピールする事に余念がないという。(夫の言葉をまとめると)

 しかし施設の子の話は不幸というよりも、人の中にある偏見や差別感を刺激するタブー視に直結する体験だ。親から捨てられた後の子の話は家庭の人の共感を呼ばず、むしろ異質なモノ、社会的排除者としての施設の子の群像と繋がってしまう。

 だから養護施設の子の問題と家庭の子の問題は違うところに位置づけざるを得ないのだ。別の問題としなくては混乱してしまう、整理が難しくなる。

 それは現時点のわたしにとって新しい発見だった。

 養護施設では、家庭から保護された子でも、泣こうがわめこうが自殺未遂しようが結果的に放置され、自分も自分の感覚を放置したまま生活し続ける。そして施設を出る頃には何のサインも騒ぎも起こさない静かな子になり卒園していく。その後、大人になりすぐに死んだ子もいる。

 わたしにとっては不幸は自慢にならず、という理由が見えかけてきた。時々、あなたよりマシ、わたしの方が辛い、という比較をし、不幸自慢という言葉や悲劇のヒロインという言葉を投げつける人がいた。

 それは、痛んでいれば誰かが飛んで来てなぐさめてもらった幼少時を何度か体験している人が持っている観念だと知った。

 養護施設全部育ちの吐き出しは単なる匿名の情報の開示でしかない。養護施設を説明するために必要な情報を世間に公開しているのであり、別の意図を持っているわけではない。泣けば慰めてくれる大人がいるわけじゃなかった施設育ちにとって、無駄なエネルギーを使う根拠はない。

 悲しみを語り慰めてもらった体験を持ち、さらにそれを追体験したいという願望を持つ人たちと自分は違うと改めて思った。

 ここ最近、Aさんがらみで、その施設全部育ちらしからぬ発想に驚きつつ追記しておく。(ただし、Aさんは不幸自慢という表現を使った事はないです。類似するような表現を使う事はありましたが・・・。)

 養護施設の子が語る事は不幸自慢と短絡する方々は、一体誰に不幸を自慢すると思っているのだろうか。それこそファンタジーボンドじゃないかと思う。居ない対象者に何を語るのか。




| └ コラム | 03時11分 | comments:11 | trackbacks:0 | TOP↑

不幸の度合いで競争する人々もいる事に気づきました


 でんでんむしさん。
 
 人は、少しでも優位に立つために自分の方が優れている、パワーがあるという主張をするのが、わたしにも理解しやすい社会の構図ですから、相手が不幸な状況にある事を知れば、自分の優位を確認する為の目安になると思います。

 わたしはこの世に生きる大部分の人は、自己の優位性を不幸を語る事なく主張するものだと思っていました。わたしは児童養護施設から学校に通っている時など、親が居ない不幸=恵まれない子ども達=可哀想という差別意識の元、一般家庭の子ども達からいじめられました。

 その時点で、不遇な境遇は全く自慢すべきことではありませんでした。

 ・・・。

 ところがネットの世界では事情が違っていました。養護施設だけで子どもが育つと子どもは無愛着児童になり、大人になった時に大変であると説明しているブログを書くだけで怒りを向けられる事に気づいていったのです。

 わたしが今回親記事を書いたのは「他人の不幸と自分を比べて、不幸ではない自分の優位性を確認するような人々」の代弁をしたいのではありません。

 わたしの親記事の意図は「自分の不幸と他人の不幸を競う、不幸の度合いが競争になるという心理を持つ人々の事」を主観で書いたのであり、現段階での自分なりの独自の整理です。

 過去に延々と「不幸自慢・・・云々」と言われてきた事で、何故一部の人々は人の不幸や不運や不遇の話に対して、より不幸なのは自分である、不幸なのは施設育ちだけじゃないなどの意見をぶつけてくるのか不思議だったのです。

 自分が相手より不幸な事でどんな利益を得るのだろうか?と思ったのです。

 本来なら自慢になりもしない不幸を競う心理と、その心理を持つ動機は何だろう?と考えている親記事だから、でんでんむしさんのおっしゃる競争心理とはベクトルが反対に向いている話です。
 
 ですから

 「ふぅ~ん、そういう人々もいるんだな」くらいに捉えて下さればと思います。

 #Maria、わたしの理解の及ばない部分も教えてくれてありがとう。

 

| レイ@でんでんむしさん | 2007/08/01 03:31 | URL | ≫ EDIT

 親記事を正しく理解できていないから、「不幸自慢」というキーワードが、別の意味にすり替えられていく。

 何度も理解してもらおうとしたけど、本筋から離れたコメントばかり。

 施設蔑視の侵入者だけでなく、「自分が世界で一番不幸」で、「世界で一番慰められるべきだ」と考えている不幸自慢屋さんが、養護施設の実態を読んで、勝手に施設育ちと自分との「不幸比べ」して、勝手に負けたと思いこみ、「不幸自慢」「同情商売」「悲劇のヒロイン」…、とうセリフを残していく。

 こんな過去の出来事の理由をLeiちゃんは整理しているのに、それは違うと言わんばかりの、ただひたすら長いコメント。

 親しくもないし、長いつきあいでもないのに、このしつこさは、「いい加減にして欲しい」と思ったのよ。

 ごめんね。あたしは、気が短いのよ。Leiちゃんみたいに、本筋を離れた意見に、延々と付きあい続ける程、優しくはないの。

| Maria@Leiちゃん、ごめん | 2007/08/01 02:11 | URL | ≫ EDIT

気持ちは分かるけれど・・・。


 今、外出中なので後でゆっくり読んでレスします。でんでんむしさんの言わんとするところを・・・。

| レイ@Maria、ちょっとキツイよ。 | 2007/08/01 00:24 | URL | ≫ EDIT

うるさいわね

何がいいたいの?

訳のわかんないコメントを延々と読まされる人の立場に立ちなさいね。読み終わるのに、5分も無駄な時間を使ったわ。

自論を展開したかったら、自分のところでやってちょうだい。

はっきりいって、迷惑だわ。

| Maria | 2007/07/31 20:39 | URL | ≫ EDIT

自分が優位と思えるためにかな

不幸克服とまで行かなくても不幸体験などで充分ですね。

自己否定感に捉われている人は常に身近な人間と自分を比較して何かの優越な部分を見出して安心する、また競争をして勝利を得ることで安心する。

そういう人たちにとって比較する事柄や競争意識を発揮するものは何でも良いのだと思います、自分のルールで自分の規準で比較競争は起こるのだと思います。

自分の体験どころか知人の体験までもがその人のルールに合致していたら自己の優位性の証明になったりもします、一般には身近な人間に対して起こるのでしょうが、ネットの世界では心理的な距離感が崩れますからね。

そしてその自分ルールの上でも自己の優位性を見出せなければ、どうするのでしょう、その比較競争の争点そのものを否定するしか無くなってしまいます、そうしなければ自分を劣位に置かなくてならなくなります、それには耐えられないから。

その争点(ここではレイさんの記事になりますね)を否定する、不幸自慢と取るに足らない矮小なものとすることで、「不幸を売り物にしている」「悲劇のヒロイン」なんていうのは争点として正しくないと言いたいことからのセリフかなと。

また「施設に救われた」「貧乏なのは施設育ちだけではない」「施設や職員への感謝がない」などなども争点をずらして、自己の正当性をアピールするための思いからと思います。

レイさんの記事により自己否定感を猛烈に刺激された結果からの反応かと、間違った競争を挑んでしまうってことかな。

うーん御免なさい感情的な部分では分かってるつもりなのですが、うまく言葉に出来ません、支離滅裂ですね(T-T)。

http://www.kato-lab.net/index.html

上の加藤諦三ホームページの中の心理的健康についての第9章神経症的競争1を見てもらったら分かるんじゃないかと思います。

加藤氏の考え方はうっかりするとうつに取り込まれてしまう危険性が有りますからさらっと読んで見て下さいな。

結局はレイさんの記事から自分自身の持ってる自己否定感(当人も気付いていない場合も多い)を刺激された結果、レイさんの記事に有りもしない自分への否定的な意見を勝手に読みとって、それを否定するためにレイさんにチャレンジを試みた私には思えます。

腹が立ってもほっとくしかないかなって思います、良くない思いからターゲットにされるのはネットの中では防ぎ様は無いですからね。

自分で作ったルールなのに最後にはそれも壊してとにかく勝利を得なければ気がすまないそんな人は掲示板とかでも良く見かけますね、そういう人はネットの世界での人との関わりなんて辛いだけに見えるのですが、そういう人は懲りずに繰り返すみたいですね。

マリアさんは不幸を比較するものでは無いと書かれてましたが、その通りだと思いますそして不幸だけでは無く全てのことで自分と自分以外の人を比較するのは結局自分を追い込むだけですね、自分を不幸にするだけですね宜しくないことです。

でも私の経験上ですが、猛烈な自己否定の中で何とか生きている、自己否定感からの脱却を図っている人にとっては他人との比較が必要になることも有るかなとは思ってます。

| でんでんむし | 2007/07/31 17:28 | URL | ≫ EDIT

他人を不幸自慢と非難することを言っています

でんでんむしさん、

 過去からの数多くの侵入者たちは、残念ながら、そのような方たちではありませんでした。
 もし、でんでんむしさんのおっしゃるような方なら、そもそも、Leiちゃんへの批判を書かないで、温かく見守ってくださるでしょう。

 でも、多くのアクセス禁止にした方は、延々と侵入的書き込みをし、最後にはろこつな攻撃的となり、そして、論破され、消えていきました。

 最近では、Sさんをアクセス禁止にしました。

http://prayermaria.blog74.fc2.com/blog-entry-125.html

http://prayermaria.blog74.fc2.com/blog-entry-121.html

↑の記事を読んでくださると、もう少し判ると思いますわ。

| Maria | 2007/07/31 01:14 | URL | ≫ EDIT

不幸自慢じゃなく、不幸克服自慢ですね


 でんでんむしさん

 不幸自慢は大きな不幸そのものが自慢になってるんじゃなくて大きな不幸にめげずにそこに立っていられたこと、生きていけたことがステータスになる、その人自身の強さを感じさせるエピソード。

 それならば「不幸自慢」じゃ物足りないので、誤解を避ける為「不幸克服自慢」として、いかに親から捨てられきっていても、絆を作り、今をよりよく生きる努力をしているかという観点に基いた言葉に置き換えた方が判りやすい表現だと思います。

 それが本当なら、序章の不幸な段階の話で「不幸自慢」だと怒りを向けられるのは時期尚早と思います。せめてエンディングの克服部分まで読み、やっと自慢された事に気づき、怒りを向けてほしいものです。

 自分が克服した暁には、そういう定義で体験記を書いていくつもりです。
 
 とはいえ、どうも納得し切れません。同時に「お涙ちょうだい」「もっと前向きになれ」と表現される事もありますしね。

 人は本当に発信者の語りが「不幸克服の話」と感じた時に「不幸自慢」だと指摘し、不快を示すのだろうか?と思います。

 少なくともでんでんむしさんは違うようですが。コメントをありがとうございます。
 

| レイ@もしそうであるならば | 2007/07/30 19:03 | URL | ≫ EDIT

不幸自慢も力自慢も私には根は同じ

力自慢は一般的な範囲より大きな力を持っていることを誇示することでしょう。他人より優れていることが自慢になります。

不幸自慢は大きな不幸そのものが自慢になってるんじゃなくて大きな不幸にめげずにそこに立っていられたこと、生きていけたことがステータスになる、その人自身の強さを感じさせるエピソード。

私の感覚では大きな不幸を耐え忍び打ち勝った人はみんなヒーローだ、尊敬・羨望いろんな思いが入り混じる、自分ももっと頑張ろうって思う源にもなります。

今話し合われている不幸自慢とは少し違うかもしれないが、根底に私と同じ様な思いを抱いて、私よりもう少し子供じみた人ならば、淡々と思いを述べている人にも不幸自慢だと負け惜しみをぶつけるのかも。

自らの不幸・不遇を表明し何らかの温情や利益を得る心理から人の思いを不幸を売りの下卑たこころと感じる人もいるかもしれないが、どちらかと言えば少ないのではと思います。

| でんでんむし | 2007/07/30 18:18 | URL | ≫ EDIT

Leiちゃん、

あたしも記事を書いた。
Leiちゃんほど切れ味は良くないけど…

| Maria | 2007/07/30 00:20 | URL | ≫ EDIT

わたしはドット目になった


 自慢には色んな自慢があるよね。普通は自慢と共にあるのは良いこと。金持ち自慢、力持ち自慢、成績自慢だの・・・。なのにネガティブ傾向の不幸が、どうして自慢になるのか判らなかった。

 そこで夫と話していて、他の兄弟などを蹴落としても「不幸」を語る事が何らかの利益になる事を知っている人の発想だという事に気づいていった。

 施設全部育ちはその部分も完璧にネグレクトされているから、やっても無駄な事は身に付かなかった。機能不全家庭の子の絡み方は、過去にたった数回味わったその慰めを刷り込まれた結果なのだと思う。

 養護施設は「良い子だろうが悪い子だろうが関係ない世界。その子が誰かより不幸だろうが幸せだろうが対応に関係ない」という事。

 夫は率直に言うから判ったけれど、ネットでは他人にこのような事は語らないから、ずっと判らなかった。

 家庭の人でも施設の子の語りを不幸自慢だと言わない人もいる。そういう人のブログなどを読むと、やはりどんな不幸にあってもネグレクトされ続けた過去が見える。そのような人は1人で立ち、語っている。

 だから、中途半端に希望ややり残した気持ちを持っている人の方が何かと騒がしいという事にも気づいていった。そういう人が多いという事が判ってくれば、こちらも余計な力をそがれなくてすむと思う。

 そうそうパワーゲームという言葉もそれに類するものだと思う。わたしは施設育ちと家庭育ちの問題は違うカテゴリの話だと伝えているのに、叩き潰す、パワーゲームという概念を持ち込む人がいて、大変困惑してしまった。ドット目になった。

 

| レイ | 2007/07/29 15:00 | URL | ≫ EDIT

眼ウロコだわ

Leiちゃん、

>だから悪い出来事は良い対応をしてもらえる事というスリコミが幼い頃に出来た家庭育ちは、
>自分の方が痛んでいる事をアピールする事に余念がないという。

 だから、自分より「不幸」に見える人には、怒りあらわな侵入をするのね。

 でも、「不幸自慢」のレベルを超えた施設育ちには、最初は勘違いからの怒りをぶつけ、実態を知ったら、差別感からの蔑視や侵入となるのね。

 最近では、Sという男が記憶に新しいわね。Leiちゃんの話に、「貧乏なのは家庭も同じ」とキレ、Leiちゃんへの暴言を残していなくなったわね。

 自身は、「自分で養子縁組は選べる」などという記事を書いていて、施設の子へも呼びかけているような文章だけど、これなんかも、文章のアクセサリーに使っているだけで、当の施設育ちへの蔑視は変わらないのよね。
 親への怒りを、「子ども自身が養子縁組を選べる」方向へ表現するのは勝手だけど、だったら、親が虐待しない方向も考えなさいよ。と思うわ。

 いずれにせよ、ミュンヒも代理も、同じ理屈なのが判ったわ。

 でも、捨てられきって、親への関心を求めなくなった施設全部育ちには、理解できない話ね。

 あたしたちは、いまもなお養護施設が存在し、養護施設だけで育つことの問題に気づき、里親制度という世界スタンダードの制度があることを知り、こうしてブログを立ち上げているだけ。
 だけど、家庭育ちの「不幸自慢屋」さんには、「不幸」をある意味で突き抜けた、親に捨てられた子の話は、「不幸自慢」の完敗の怒りがあり、その先に、施設差別感が頭をもたげてくるのだと思うわ。

 ま、侵入する動機が、よ~く判ったから、「判って欲しいオバケ」ちゃんや「かまって欲しいオバケ」ちゃんへは、それなりの対応をするわ。

 でも、こういう人たちって、うんざりする程たくさんいるのよね。

| Maria | 2007/07/29 13:43 | URL | ≫ EDIT














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