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| 整理中の課題&記事 | 07時21分 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑
「郷に入れば郷に従え」って、個人対個人では、あまり使わないですよね。
それぞれの生きてきた環境を郷と言うならば、同じ日本人であっても同じ郷の人はいないと思うからです。
「社会で自分が不利益を受けないように、周囲に適当にあわせておいたら?」
くらいの意味ではないかなって思っています。
だから、反省も
「わたしが悪かった」みたいなのではなくってね。
「お互いに合わせるのに失敗しちゃったね。今度はうまくやろうね」くらいで良いのではないかなぁ。
お互いに相手の郷(相手の人生や習慣)に従おうと努力するのは良いですが
便利なことわざに逃げこんで、説明もなしに相手に従えというのは、強者のずるっこみたいに感じてしまう。
昔、ことわざや、偉い人の言葉などの権威を利用されることが多かったので、過剰反応しているかもしれませんが。
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話はかわりますが、私は「仮病で仕事を放棄する」のは強くても許容範囲外になります。
責任をとるべきだとは思いませんが、信用できないし応援したくない気持ちになります。
朝青龍さんが仮病だったかはわかりませんけれど、ね。
| cat@ことわざ嫌い | 2007/09/02 00:52 | URL | ≫ EDIT
なるほどと思いながら読ませていただきました。本当にありがとうございます。日本で住んでいて(というか、社会に出て)感じる事は、言語化して、定義を追求しないとどうにも収まらないほど、訳がわからないのです。
精神的なダメージを負うという意識1つとっても、最初に反省あり、最初に謹慎すべきで、沈黙は金と言われ、押し黙れば今度は、ふてぶてしい態度だと言われます。
施設でもそうだったと(確かな記憶というよりイメージ)すぐに思えます。言い訳するなと言いながら、施設には違う処遇の子が集まるのだから、自分の立場を明確にするべく、説明する必要があるのに、スタンダードが多すぎて何が正しいかすら判りませんでした。
読者Aさんのレスを読んでいると、この国は長い間、何か同族意識の中でひたすら、共有感覚を持つ事をまるで定められているかのような、強迫観念を感じさせられます。
又、意見をよろしくお願いします。違う立場をご存知な方の冷静な意見を欲するわたしとしてはとても有意義なものです。ありがとうございます、取り急ぎ。噛めば噛むほど味に深みが出てくるような記事が書ければいいのだけど・・・。
・・・親方は本当は朝青龍と関わりたくないというオーラが見て取れる気がして、かつての職員の姿を彷彿とさせて親方が気の毒に見えたり、弟子が空虚に見えたり・・・。しかし、この状況が何かに似てると感じる事で、考える事を放棄するような事がどうも出来ない自分の側面があると知りました。
| レイ@読者Aさんへ | 2007/08/31 07:10 | URL | ≫ EDIT
日本人はものを言わないことを美徳とします。
「沈黙は金、雄弁は銀」、「言わで思うぞ言うにまされる」
言わずに済むことは言わないほうがいいという文化です。
だから、言わなくても相手の思うことを理解しなければならない。私はそれが嫌いです。相手が何も言わなくても、何を考えているかを察して、相手が言う前にそれに従う。それができない人間は「社会性がない」「協調性がない」と非難される。私もそう言われている1人です。私は、言われる前に察して先回りして相手の気持ちに従うのが苦手。だから「自己中」と非難されます。
日本人は精神性を重視する傾向があって、強くとも「道」に外れた者は価値が無いとします。柔術よりも柔道、剣術よりも剣道。ならばその「道」とは何かと言われると、様々な流派があって一定していない。
鎌倉時代、日本がモンゴルに攻められた時、日本の武士が「やあやあ我こそは○○天皇が第○子○○親王が末裔、……」などと名乗りを上げているうちに、敵の矢に射殺されていったのは有名な話です。戦争にも作法があって、それを守らなければ勝っても名誉にならないという思想があったからです。源義経が強かったのはその作法を守らなかったからです。敵の背後から奇襲したり、壇ノ浦では「船頭は狙わない」という作法を無視して平家方の船頭を弓で殺して敵の船を動けなくしたからです。平家はルールを守って負けたのです。
強いだけでは褒められないのが、昔からの日本社会です。相撲などの世界は古い思想が特に色濃く残っているので、朝青龍さんは強くても叩かれるのでしょう。
私も日本文化からはどこか外れていて(純日本人なのに)、「社会性がない」と言われ続けているので、そういう部分は好きになれません。しかし、確かに、「郷に入らば郷に従え」とも言われます。英語にも、「When in Rome, do as Romans do」(ローマにいるときはローマ人のやるようにせよ)という言葉もあるので、ある社会に入ればその社会の流儀に従えというのは、洋の東西を問わず世界的な思想なんでしょう。
私は個人的には、朝青龍さんには同情的立場です。
朝青龍さんは関取です。しかも横綱です。相撲をするなら責任があります。もし、巡業に参加して、そこでいい加減な相撲を取ったら何と言われるでしょう。横綱が相撲を取るからには真剣勝負をやらなければなりません。そんなことをすれば、怪我はますます悪化するでしょう。
しかし朝青龍さんはサッカー選手ではありません。サッカーは、無理しないように、適当にやっていればいいのです。彼にとってサッカーは「遊び」なのだから、怪我が悪化しないように、適当に調節してプレイしていればいいのです。しかし、彼が相撲を取る時は…そんないい加減な態度では許されません。少々無理をしても真剣勝負をやらなければいけない、それが関取の、横綱の義務でしょう。
だから、相撲はできないがサッカーはできる、ということは十分にあり得るはずです。
しかしそういう理屈よりも、「態度が許せない」というのが日本人的な発想なのでしょう。理屈を超えた精神論に持っていくところ、私は好きになれません。しかし「郷に入れば郷に従え」で、従えない人間は悪者扱いされる、その傾向は日本に限らないようですから。
朝青龍さんは、モンゴルという逃げ帰る場所があります。日本で叩かれてもモンゴルでは英雄です。その時点で、Leiさんとは根本的に立場が違うでしょう。
まず反省、それから治療。
…私はそうは思いません。
治療ができなければ事態に正面から向き合えず、反省することもできないことだってあります。反省するには現実を直視しなければなりませんが、それができるくらいなら精神的に病んではいない、つまり治療の必要もない。治療の過程で反省させること、同時並行的に行うべきだと思います。
医療少年院などはそうやっていますけどね。教護院だって、入所早々に「反省しろ」って言っても無理で、生活の中で徐々に反省させていきます。それは大人についても同じで、治療と反省は同時進行、治療の終了が反省の完了、というのが正しいと私は思います。
| 読者A | 2007/08/31 01:38 | URL | ≫ EDIT
日本の文化になじめない・・・って感覚なのかな?
いつも「はみ出している」って感じがする。
身についていない。(いまさら必要ない)
ものごとを知らなかった。(今は理論でわかるようになった)
いまでも、家庭があるのに「一人でいるような気持ちをもったままになる」
それでも一緒に住んでいる時間が長いと、朝出かけるとか夕方帰ってくるって思うとか、遅いとどうしたかな?って心配できるようになってきた。
自分は?っていうと、「心配されている自覚が足りなすぎ」で、携帯に何度も着信履歴がある。(笑)
本当にたった一人で住んでいたのは2年間なんだけれど。
後はいつでも家の中には人が一緒に住んでいた。
大人になってから、一緒に住んだ人は今は「ああ、家族だよね」って思うけれど、18までの住人は感覚的にはだれ??ってわからないままだ・・・。あとで記事にしようかな。
あとで消すかも??
一般家庭の非言語的な部分
catさん、おはようございます。
「郷に入れば郷に従え」って、個人対個人では、あまり使わないですよね。
それぞれの生きてきた環境を郷と言うならば、同じ日本人であっても同じ郷の人はいないと思うからです。
いや・・・まあ姑と夫2人掛りで言うので、そうなんだと思うようにしてるけれど解釈の部分でうまくいかず、
「社会で自分が不利益を受けないように、周囲に適当にあわせておいたら?」
くらいの意味ではないかなって思っています。
というのも、元々、周囲に適当にあわせようにも、前提がわからないので、どうしても説明をする、説明を求める、スタンスを示すという反応をします。
するとその態度そのものが、ふてぶてしい嫁という捉えられ方をするところに、理解しあう為の見えない壁を感じています。
だから、反省も
「わたしが悪かった」みたいなのではなくってね。
「お互いに合わせるのに失敗しちゃったね。今度はうまくやろうね」くらいで良いのではないかなぁ。
「周囲にあわせてくれよ」とよく夫から言われるのだけど、その中に「母さんの顔を立てて謝っておいてよ」いう意味も含まれていると教えてくれた事があります。
だから「わたしが悪かったんです」という場面は数え切れないほどありました。元々謝るのは得意?でしたが、アサーティブ的にどうだろうか、自分にとってこの平身低頭状態は、周囲にうまく合わせてる事になってるんだろうか?と疑念もよぎりながら、まあがんばっています。
お互いに相手の郷(相手の人生や習慣)に従おうと努力するのは良いですが
便利なことわざに逃げこんで、説明もなしに相手に従えというのは、強者のずるっこみたいに感じてしまう。
確かに、ことわざはいっぱいお姑さんから言われました。
亭主の好きな赤烏帽子、嫁して3年子無きは去れ、親の心子知らず、あとは・・・郷に入ったら郷に従えもそうですね、それこそお姑さんはことわざで会話しています。
話はかわりますが、私は「仮病で仕事を放棄する」のは強くても許容範囲外になります。
責任をとるべきだとは思いませんが、信用できないし応援したくない気持ちになります。
朝青龍さんが仮病だったかはわかりませんけれど、ね。
親記事では強い奴がルールだと書いたんですが、補足しとけば良かったです。わたし自身、施設の感覚を全て修正しているわけでないので、今も定義中です。
わたしは夫がもともと仮病肯定派なので、仮病を使うような精神状態である事がすでに心の病のサインの1つかな?と捉えていますが、
ただ夫は朝青龍のように、巡業(仕事)をケガで休むと言っているにも関わらず、ケガを感じさせない(あくまでそう見えるだけですが)堂々としたフットワークでサッカーをやるその姿勢に夫は反感を持ったようです。
わたし個人は仮病という態度を取る理由が思いつかないのでやりません。そしてフィジカル面で特に強い人が法則だと感じやすい施設育ちの感性はありますが、施設で強いボスは堂々とばっくれてました。仮病なんて面倒な事はしていませんでした。
だから朝青龍とわたしを混同されるのはわたしにとっては整理の邪魔でしかありません。(これを夫に言うべきだ、もっと強く)
| レイ@catさんへ | 2007/09/02 05:37 | URL | ≫ EDIT