わたしは、養護施設は収容・拘禁施設という捉え方を持っている
コラムわたしは一度目の施設を脱走して、連れ戻され、その後の記憶があいまい。二度めの施設に至っては脱走の記憶すらないのに、誰もが過去のわたしが脱走騒ぎを起したと言う。(過去の自分探しにて)わたしは養護施設は収容施設というよりもさらに強い表現の拘禁施設というイメージをぬぐえない。
養護施設から逃げ出す事を脱走という(又は>
家庭で虐待を受け措置された子にとって施設での脱走は過激な「お試し行動」のようだ。職員の手を煩わせても自分に向かい合ってほしいと願う、家庭でネグレクトされたルサンチマンの行き着く先が、職員への投影。職員も、そのような子に対しては何故か熱血職員の顔を見せる。でも一方では・・・。
だけどそんな暴力空間から逃げ出したい子どもにとっては、のどかなものじゃない。命を掛けて牢獄破りをしようとしているのに、結局連れ戻され、その先は記憶が欠落している。逃げ出したその先を覚えていない。結論が見えない映画を見せられても悶々とするばかり。こういう記憶の断片は好きではないが仕方ない。
養護施設が暴力においてはハイリスクである事と拘禁施設でもある事に、何故、親から捨てられた要養護児童が付きあわせられるのかを問わなくてはわたしも、自分の心に納得いかない。
一番裏切りたくないのは、過去の自分。そして親から捨てられてわけもわからずに拘禁されている子ども達。子どもたちには家庭が必要なのだ。懲罰や拘禁は必要ない。
養護が必要な子に何故いつもいつも収容・拘禁・処罰が与えられるのか。要養護児童に本当に必要なものの本質は何なのか、大人たちに考えてもらいたい。親が育てられない子どもだから収容・拘禁されるのは「仕方ない」と考え、そこで思考が停止する状態を、他人の表現を使うなら「バカの壁」に当たるのではないかと思うし、その国の一般の人々の文化レベルをあらわすと思う。
わたしは施設で全部育ち、家庭を知らないという事を伝えた時、ある人から「その事についてケアを受けましたか?」と言われ、自分を否定された気分になり激怒したことがある。でも今ならその人の、基本理念が理解できる。家庭で一度も愛を受ける事がないという事は、ケア対象なんだと・・・。
いつか読者Aさんがどんな虞犯も保護対象にされるべき(云々)とおっしゃっていた気がするが、それなら、要養護児童が児童養護施設でプリズンブレイクを企てる気持ちを持つような精神的なプレッシャーを、誰が知る?
「咎なくて死す
by 柿本の人麻呂 」
咎を何故受けねばならぬ、何故なのだ、そこからわたしの意識は始まっている。原罪という部分にも抵触しているので、考えなくてはならなかった。
親がない子が何故収容施設にいるのだ。親が育てられない子には収容施設は必要ない。たった一人の大人から愛される事が必要なケアでありトリートメントなのだ・・・。捨てられた子が施設で全部育つ事は保護じゃない、拘禁だ。それを「助けられた子」と表現する事はわたしの感覚が許せない。
親のない子にとっての本当の保護とは、あらゆる暴力空間から真の意味で助け出される事、そしてその空間から引き離し、修復とケアをじっくりと受ける事だ。
それが判っていながら乗り出せない大人都合の利権の問題を考えるだに疲れる・・・。(ひとり言)
| └ コラム | 07時50分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑
























間違えたよ!
Maria、そりゃ確かに無駄だったかもれないけれど。
「無駄外泊」ではなく、「無断外泊」だと思うの。
でも、なんでまちがえちゃったんでしょーね、自分。とほほです。直しておくよ。ありがとね。
| レイ@ぎゃぼっ! | 2007/09/29 10:38 | URL | ≫ EDIT