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タッチタイピングとショートカットを覚えこんだ理由

特定のキーワードから逃げ出す心理


 施設出身者らでつくる施設退所者支援組織「日向ぼっこ」が掲げている「居場所」「同じ境遇」「独りじゃない」という考えはきっと世間的には何らおかしくはないし、むしろ世間の人々が持っている養護施設の子が助け合っているイメージをそのままキーワードとして採用しているようにも見える。それはそれで、彼らの「何かを支えて」いるのだろうと思う。
 
 でもわたしは、よりによって彼らが採用しているキーワードが最も、気付いたら距離を置いている言葉の羅列なのだと気付いた。それは彼らのせいではないし、これはわたし独自が持つ何かしらの因果関係が潜んでいる課題だと認識している。

 「居場所」
 
 脱走したら連れ戻される場所である施設を居場所だと感じられない。わたしにとってのスリコミは養護施設に対してあまり良いイメージを与えてくれはしなかったようだ。居場所は自分の心に構築しなくてはいけないと思った。居場所は拘束されたり収容されたりする事と同じではないと思った。

 「同じ境遇」

 よくある言葉として「同じ境遇の子ども達どうし助け合って生活している」というものがあって、それを大人になり、ふと耳にするだけで、耳はふさげても反応した自分の本音はふさげないと思った。同じ境遇などじゃない。チガウ措置理由の子ども達同士が喰らいあっている。他の児童が他の児童を「お前の親は○○病」「お前の親は○○所へ入ってるんだよな」といじめる。チガウ措置理由、チガウ家庭の子同士の、迎えにも来ない互いの親の事を蔑む空間。

 「独りじゃない」

 集団に入れない子を問題視する集団養護。たった一人の大人と愛着を作れない子が集団の中に身を置いても流されていくだけ。自分ひとりで自分を育てて「集団に染まらない」「集団に流されない」という決意を持ったとしても、養護施設では、集団に入れない問題行動のある子として断罪される。

 時にはみんなの前に立たされて「独りだけ別の行動をとってごめんなさい」と言わされる。とことんその個人的行動を議題にあげられる。独りじゃないと思った事はない、独りになる自由もなかっただけだ。

 以上、彼らの持っているキーワードが何故自分を引かせるのかを、自分の感じ方のままに書いてみた。これらの整理により気付いた事は、わたしにとって一番怖いのは、何も考えられずに流されてゆく事だと知った。自分がしている事の意味を自分が把握しないと取り返しがつかない事が多いと知っているので、わたしは一人で生きる事を選んだ。

 そして、わたしは「養護施設へ戻りたいという心理を持つ」他の児童養護施設出身者のブログも時々読んだりする時に、措置理由の影響がそれぞれの思考の根底にあるという事も更に理解した。

 わたしは養護施設に伴うキーワードをキーボードを覗き込みながらタイピングするのが嫌で、あまり意識せずとも体で覚えてしまおうと思い、タッチタイピングを猛特訓(訳ありで、少し左指が動き辛いので訓練になってしまう)した。あまり意識を強く持ってそうしたわけではないのに、タッチタイピングを覚えてからは記事を書く時の疲弊感が少なくなった。養護施設という言葉をショートカットキーにしてしまっても良いのかもしれない。



 たとえその子が良い子でも施設出身者からは逃げ出したくなる

 わたしは出身施設の子で1人連絡を取ってくる子がいる事も実は(苦痛?)だ。夫からすれば「幼い頃を過ごした仲間なんだから・・・」と、連絡を返さないわたしを白い目で見る。その子は残念ながらとても良い子なので、連絡して来た時に断る理由が思いつかなくて無視し続けた。だけど夫が彼女との連絡の為の橋渡しをする。彼女のメールをわたしに教える。わたしは彼女から連絡がくるたびに逃げ出したい気持ちになっていた。
 
 でもここまで書いて何となく判ってきた。わたしはわたしが自覚してるよりもずっと深い場所で、養護施設の子たちを避けてしまうところがあるんだと・・・。良い子だから我慢をしなくてはならない気分でいて、申し訳ない気持ちだったけれど、少し自覚できて良かった。

 わたしは施設出身者や職員、あの場所に接したくなかったんだと知った。自覚した以上は何か対処しなくてはならないのかもしれない、養護施設を連想させるもの全てからは逃げられない、とくにネット関係は・・・。

 たとえ出身施設が虐待のない養護施設だったとしても、良い子が昔のよしみで追いかけてきても、

 せめてリアル世界では遠く遠く遠く・・・逃げたいのだ。

 

| └ 地雷原かも | 01時37分 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

 養護施設で美しく表現される言葉は、いつもうさんくさく感じてきた。
 公然と批判すると、「人でなし」と言わんばかりの雰囲気があるの。

 でもね、
言葉を多用する場所には、
その言葉の意味するものはないの。

 以前、sidoさんが里親関東ブロック大会で、里子と施設育ちに「居場所はどこですか」と質問したら、里子は「里親家庭だ」と明確に答えたけど、施設で育った子は、考え込んで、答えられなかった、と書いてあった。

 あたしも、施設が居場所だなんて思ったことはない。
あたしのいる場所が居場所だなんて、言っていた。
 自分自身が居場所って事は、どこにもいても同じ、居場所がないって事よね。今思うと、一面の真実ではあるけど、哀しいな…、って我ながら思うわ。
 居場所なんて作るものじゃないの。最初からあるものであり、そこで育つものなのよ。

「一人じゃない」もそう。

 たしかに、養護施設は子どもが大勢いて、物理的には一人じゃない。だけど、雑踏の中の孤独なの。それが、社会に出ても続くだけ。
 だから、施設育ちが集まっても、代わりはしない。自分だけの大切な人を見つけ、絆を作らなければ、いつまでも「独り」なの。
 施設育ちが集まっても、施設を再現するだけだと思うわ。

 「同じ境遇」というけど、家庭から来たこと、ものごころついたら施設にいる子は、同じ境遇だとは思えない。施設に入ったことを持って「同じ境遇」と言うのなら、刑務所に入っても、「同じ境遇」となるの。
 あたしは、無実の罪で子ども時代の全てを収監されていた気がしてならないわ。

| Maria | 2007/10/02 01:41 | URL | ≫ EDIT














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