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人間は人間から愛される事で人間らしく育ってゆくらしい

整理中の記事:コラム

『さあイメージして下さい、あなた方は父なる神から幼子のように抱きしめられているのです、だから幼子のように神を求めなさい』という言葉を紡ぐ人の姿だけがほの暗い影のような人の姿でイメージできる。

 ・・・・幼子が親を求められない環境でよく言うなあ(本音)と思う心を追い払い、必死に聞いている。

 愛という漠然とした印象の事柄について、まず脳裏に浮かぶのは「父なる神の愛」というものだ。親という漠然とした事柄について、まず脳裏に浮かぶのは父なる神。ここから人生の意識化が始まっているので「人間的な愛や親とのかかわり」について学ぶ機会を持てずに来てしまった。

 人生のスタートの時点で、愛も愛への向い方も、たとえ姿を見た事がなくても臨在という形で神と神の愛は在り続けるとイメージする訓練?を受けていたので、誰も人間がいなくても充分であった。

 わたしが接した世界観がわたしに影響を与えたというのなら、スリコミにあたる存在が宗教的なものであった為の、人間としての心の育ちについて、どうも家庭育ちの夫などとはかけ離れているようなのだ。ここはまだうまく言えないけれど・・・。

 施設の子は姿の見えない、想像もできない存在に対して愛着を示す事を(宗教を利用して)強要させられていたような気がする。神への愛へのイメージトレーニングをずっと施設ではやっていたような気がする。「見えない存在だけれどそこに臨在している」とイメージする事で、夢の世界の中で生きてしまう。でもわたしはそれを自ら選んで行動している事実もある。

 現実の人間関係が良質とは言えない児童養護施設の子どもたちは、互いに良い結果をもたらす存在ではないと思っていたので、心を強くするためには、ますます神へ向ったのではないかと思う。わたしは心が苦しい子ども達に見えない神の存在を示して、その神に愛着を付けようとするかのような施設運営の一環にも最近は疑念を感じている。

 ある程度歳を重ねた受刑者などに神の教えを伝えるのはいいとして、生まれた時から乳児院や養護施設で、神に愛着をつけさせ、一方で、生きた人間との交流については、常に意識を逸らさせるような育て方をする事に、最近はとても歯がゆいような思いを持つ。

 わたしが施設時代1人でやってこられたのも宗教的な意識が常に働いていたからで、生身の人間を求める必要性を知らずに来た事に気づきもしなかった。これもある種猫ダマシのような養育環境のような気がする。

 職員は論旨のすり替えが上手なのだけど、養育環境そのものも、子ども達の現実として「子ども達の最善の利益の為に」社会的養護の観点からもっと追及されるべきものが、宗教観と共に混在させられていて「宗教的な価値観」にすげ変わっているような気がする。

 他の宗教系施設の子が「宗教漬けの日々」と書いていた事があった。

 なるほどという思いと反感とを併せ持った感情を抱いてしまった。施設の集団養育を否定しながらも、宗教観を否定し切れない自分を意識せざるをえなかった。でも確かに、施設外の世界を知っている子は「宗教漬けの日々」と捉えてしまうのも無理はないと今なら思う。

 わたし達が持つべき愛着は、本当は神にではなく(というか神は別格の存在なので愛着相手ではないし)本当は生きた大人、生身の体と心を持つ相手ではなかったか?

 これは少し整理中の記事なので、言いたい事がよく判らないと思う。わたしは施設で育てられた事を否定して施設時代の宗教観を肯定し、そして生きた人間への愛着の必要性を発信していながら絆作りから逃げる気持ちがあるという事だけは、自分なりに押さえておこうと思う。


|  整理中の課題&記事 | 06時25分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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