「親がいない事が問題なのじゃない、親がいないせいにする心の癖が問題だ」というコトバ
ありがちな具体例親がいない為に保証人もいない、施設だけで育てられる、家庭のイメージがない事など、心の癖だけで解消される問題だろうか。心の持ちようで親が出てくるのか、施設を家庭を思えば施設で育った事を誤魔化し切れるのだろうか。 施設を家庭だと思えば、家庭を作った時に子育ての時に家庭の子育てを施設方式にしてしまう。
一年に一回担当が変わる親がどこにいるというのか。人はいつも流れゆく存在だと教えるつもりか、学校を卒業して家を出る頃には「親はいないががんばって生きて行け」と送り出すつもりか。
というよりも・・・これは「社会的養護の問題」じゃないだろうか。今審議している事に繋がる話じゃないのだろうか。
1職員のブログ読んでいて昔別れた人から言われた事がよみがえってきた(怒)ので、少し整理しておく。最近は他のブログのメンテや何やかやと忙しくしてて文章をあまり書いてなかった。
・・・・。
昔付き合っていた人が体育会系の人で、やけに何でも前向きな人だった。その人は両親も揃っていて大学も出ているが「寂しい思いは誰だってしている」という論旨の展開をする人なので、親がいない事でこうむる不便さを理解しようとしなかった。
わたしは親がいない事では感情に振り回されるようなことはない。さびしいとかさびしくないとかの感情が沸いて来ない、それよりも、身分を証明できる他人が居ないと不便すぎる。
だから彼のこの言葉、
「で、君も寂しい思いをしてる事は知ってるが、親がいないと思うから不便と感じるし不幸と感じるんだよ、君の生き方しだいで人生は変わるんだよ」と言われた時に、ムッとした。
わたしは「親がいない事で困る事はもっと具体的なこと」だと言った。
「身元引受人がいない事、保証人がいない事、カードが作れない事、親がいない事を感謝して(利用して)性的に扱われる事、誰からも引取り手がない為に施設だけで育つ事、社会に出てからの適応障害、などなど・・・」
について、当時、自分なりに説明した。彼は仕事はできるくせに親子の話になると急に感情的になっていたが、とても興味深い心理だと思う。
ふだんこのブログで「親がいない為に養護施設で全部育てられた事」について書いているからといって、親がいないことを嘆き悲しんでいるかというと、その不便さと施設で育つ事で、子どもが家庭で育つ権利を奪われている事実を書いている。
自分の事はわからなくても自分とよく似た境遇にいる親から捨てられた子ども達の、その行く末が乳児院〜養護施設全部で育つかと思うと、将来大変な人生を送る事になるという危機感を持ってしまうから。
わたしは「不便である事実」と「エモーショナルな事」は分けて考えているし、横道にそれた時は元のスタンスに戻る努力をしていくつもり。
感情は感情で持っていてもいいし、どのような主観を持っていてもいいと思うが、実際にどのような不便さを抱えて養護施設を出る事になるのか、その具体的な部分でほとんどの子は困っている。その事をポイントに置いて語りたい。
それに感情面については、養護施設に居る間に子ども達は何も期待しなくなっている。
施設を卒業する頃には、卒業証書と共に子捨ての完了証書も貰ったようなものだ。それを持って施設を出て1人で生きるのだ。そんな卒園者たちを待ち受けるのは、ひたすら不便で先も後ろも見えない人生だという事。
でも乳児院にいる子ども達には自分がたった一つの大事な命だという感銘に繋がる出会いを持ってほしい。そして「施設で育てられた事を肯定する為に施設を家庭だ」とごまかす事の限界を覚えた大人として、子ども達が家庭で育てられる道がある事を少しでも発信したい。
家庭で虐待を受けた事実をようやく語れる(文章化含め)ようになった人に対してわたしは
「虐待を受けたと思うのは、心の持ちようだ、心の癖だ」とはとても思えないし、言えない。
それなのに、親から捨てられた子に向ってはタイトルのようなコトバを投げかける人が幾人もいた。その言いやすさの違いというものがあると思っている。
| └ ありがちな具体例 | 15時28分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

























わたしは里親もケアを受けてほしいのですが。
| レイ@jtwさん | 2007/10/06 10:39 | URL |