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荒廃のカルテ:少年識別番号「1589番」として呼ぶ方が馴染み深い

読書中 → 完読






 Mariaから、荒廃のカルテを借りて読み終わった。← ありがとね。
何度か紹介されているのをあちらこちらで見かけたが、読んだのは初めて。

 今はとってもお安くなっているので、1500円以上お買い上げで送料無料との事ですので、ご興味のある方は、左のAmazon.co.jpから、どうぞ。やはり自分で文章を書くのもいいけれど、時には触発されたいので、他の人の事例も勉強せねばと思いました。


 
 この本の前書きで、ある児童精神科医が少年の鑑別結果について分析している。



 「このケースは特異なものではりません。私のところにやってくる親の期待過剰や幼児期の母子関係のつまづきで人間的コミュニケーションができない子どもの症状とそっくりですよ」と分析。



 「表面上に現れている症状」から「そもそも違う問題」を一括りにされる事への拒絶反応を覚えながら読む。物心ついた時に施設だったという事について、母子間の分離体験も、母子間のつまづきも全く意識すらせず、ただ施設にいる事に気づいたという、人生の始まり方について、こんなに乱暴に家庭の期待過剰ケースとそっくだと告げられることへの、いかんともしがたい思いを持つ。

 わたしは気が短いので端的に。

 最終的には、少年側は、地裁で無期懲役の判決を受けて控訴したものの、高裁では棄却されて無期懲役の刑が確定したという事実のみ。



 当時控訴者の弁護人を引き受けた山下弁護士が控訴趣意書の柱に精神鑑定をおいたのもその為だ。

「一審で、規範意識の鈍磨が著しいと言うが、では何故鈍磨したかについては一言も触れていないのです。修の成育歴と、鈍磨の原因は重大なかかわりがあるのです。修のこうした人格発達における障害を修の責任と言えるでしょうか」

 一審で、弁護側の生育歴の主張があっさりと退けられたとおり、現在の日本での刑法理念は、規範意識を覚醒させる機会が、だれにでもあるのに、自らの責任で鈍磨させた点に犯罪責任を求める事で成り立っている。これまでの判例でも、鈍磨の原因にまでさかのぼって人格の発達問題に踏み込んで判決を出したケースは、ほとんどない。



 この後、最終的に高裁で無期懲役の懲役刑が確定された。

  


感想文

空気イスはリンチだった

 少年の話には、施設でのリンチの内容や、職員・保母との関わり方やらがかなり詳細に出てくる。読んでいて、今までごく普通のクラブ活動での指導と思っていた空気イスが、彼の中ではリンチとしてカテゴライズされている事には大変びっくりした。

窒息と首絞めに関する彼の表現

 また、窒息させてから行為に及ぶという事についても彼にしてはかなり、本を読む限りだが、熱病気味に語っているように感じられた。何故だろう、そう感じて仕方ない、そして彼はそれを書くなり語るなりしている時、性的な興奮状態になかっただろうかと失礼で勝手ながらに思う。

 ・・・でも彼だけに言わせるのは申し訳ないので自分の事も、彼の記事に乗じて書いてみる。

 わたしの施設の話で恐縮だが、施設には呼吸の問題を抱えている子がかなりいた。首を絞められる夢というものをわたしも見る。首を絞められる、服の襟をつかまれて空中に持ち上げられ、弛緩させられる恐怖と抗うような・・・でも途中で諦めてしまい、その状況を受入れるしかないという気持ちへ移行していくような夢を見る。その夢は時に性的な興奮をもたらす場合が多い。何故そうなのか判らないが・・・。その点で、施設という世界では常に、色々なバリエーションの子ども同士の行為があったのだろうと想像する。

コミュニケーション

 養護施設では集団生活が生活の根幹だから、個人で生きる事はそのままエゴイズムとして糾弾される、自分が自分らしくなどと夢物語を紡げないほど、コンテンパンにやられる。それが集団心理と相まって、職員がわざわざ虐待や暴行をせずとも、子ども同士、自動的にスイッチが入るようになっている・・・。 
 
 彼の話を読み、施設を出た後の彼のとまどいも少し判る。もちろん本人ではないので主観的な意味づけになってしまうが、わたしが今感じている焦燥感にも、人間とのコミュニケーションの問題がある。 

 わたしは集団生活しか知らないので、一対一で人間関係を作る事ができない。相手が1人であろうとも「その人を集団の一こまとして」しか処理できない。『あなた≠目の前のあなた』とならない。
 
 一人の人間と関わってはならない集団養護の世界から、1人の人を1人の人間として扱わなくてはならない世間へ適応する事に困難を覚えている施設育ちの問題は、冒頭のような精神科医や研究者によって乱暴に普遍化されてしまうので、施設独自の問題として抽出しづらい。

ジェンダー

 ジェンダーが判らない(男も女も施設では未分化な状態で放置状態)、施設で一番放置されている、野放しにされているのは、暴力行為や精神虐待だけでなく性的な問題もそうなのだ。ジェンダーが判らないという事は、同性、異性おかまいなしの状況が暗黙の了解となっている。

 乳児院・養護施設の長期入所児童の問題は、集団生活による育ちの問題だ。たしかに、施設で育てられてもこの世を犯罪者にならずに生きている者たちは多い。しかし、わたしはこの少年識別番号1589が、施設で受けたトラウマにより、施設を出たあとトラウマが症状として現れたのだと解釈した。

 つまり、家庭で虐待を受けた子が施設に入り、施設へ保護された安心感からか受けた傷を施設で吐き出す。それが虐待の再演。しかしその受け皿となりやすい乳児院から来た何も知らない子は、施設時代の全てをトラウマの元となる虐待・リンチ・集団暴行を家庭から来た怒れる子どもから受ける。

 そして施設を出る。施設を出た後に、トラウマが本人の症状として現れる。しかし施設を出た後なので、問題を抱え込み、やがて犯罪という形でしか表現できなくなっている。
 
 本来なら施設は、虐待された子どもの保護場所だが、その影で、そういう少年達から一方的に傷を負わされ続け、施設時代を生き延び、社会に出た後に、その問題が問題として表面化する親から捨てられた子ども達。その問題は、家庭で過剰に期待された子ども達と同じだととても思えない。

規範と共感

 相手が辛い事をしてはならない。人が嫌がる事をしてはならない、でも嫌がらなかったらそれはどうだろう。わたしは嫌がった事が今まであっただろうか、いざなう事はあっとしてしても、相手の怒りを増幅させる事はあったとしても、相手を静かにさせる方法をあまり知らず、相手をぬきんでた怒りに達するまで、ただ見ているところがある。

 そこに共感はない。早く終わらせるために相手の怒りを早く頂点まで持っていきたい。わたしは、養護施設の集団の中で生きる事について、人生の全てを掛けて考えなくてはいけない。その事実について、もう、すでに諦めている。より良い人生は他人のものだ。

 それにわたしが今、犯罪を起してないのは、自分の育ちの問題を自覚しているからに過ぎないし、わたしはいつ、施設の世界観を用いるか判らないのが現状だ。それにしても何故、彼は全ての子ども時代を乳児院・養護施設だけで育たねばならなかったのだろうか。

| └ 読書中 → 完読 | 07時46分 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

Leiちゃん、頑張って読んだわよ。
そして、吐きながら書いたわよ。

でも、事務的な文書になってしまったわ。

| Maria | 2007/12/10 23:57 | URL | ≫ EDIT

精神科医もサンプル(事例と言う意味で)が少ないのだと思います。
人を頼ることをあまりしないLeiさんのように、通院しなければ・・・自分から考える人は、少ないですよね。私も同様でした。まして、身体症状に出てくるのであれば、病気かな?と思うこともできるけれども、心の癖のようなものは、自分が悪かったのだと思わなくてもいいと誰かに言われない限り、変わることはないのだと思います。

Drも、臨床心理士(こちらは歴史が浅いし)特に、養護施設出身の人に出会うこと事態が少ないだろうし、かといって、「わからない」とは言わないだろうね。

だから、知っている限りの事例を引っ張ってくる、そして知ったかぶりのように述べてしまうのだろうと・・・・。


自分たちの専門家は自分たちしかいない。
Leiさんの「違うと思う」と席を立ちたい気持ちは、正当なものです。
家庭で育つこととの違いの証拠なんて、必要ないのです。

「違うと思う」と家庭での生活経験を持たないLeiさんがそう感じるのですから。
何年か前までは、家庭で育った一般の人よりも、Leiさんたちの発信が自分に当てはまることが多かったから、「同じような感覚になる」と思っていたけれど、まさしく「違うと思う」というのも、わかってきました。
時間はかかるけれど、言い続けることが大切だと思います。

ちなみに。
医療現場では・・・、叫んで席を立つ経験は何度か、私はしました。でもわかってもらえる情況ではないから、薬をもらうために利用します、医療も利用する側が選んでいいと思うから。

養護施設の集団養育に詳しいとされている村瀬喜代子さんも、「養護施設では子どもたちは現在心のケアをされていない」と話をされていました。

なので、「違うと思う」「乳児は原則里親へ」と伝えていきましょう。立場は違うけれど、目標は同じだから。

| kasumi | 2007/12/10 10:13 | URL | ≫ EDIT


 こんばんはKasumiさん。いつかわたしもカウンセリングを受ける機会があるかもしれない、その時に、この本の冒頭にあるような、家庭にいながらにして家庭でなかった子と、人生の初めからこの世に誰もいない現実を歩いてきた子が、症状としてとても似ているとしても、医師から「まるで家庭で過剰に期待されて育った子とそっくりですよ」と、言われた時に、そのそっくりであるという指摘を素直に承服できるだろうかと、個人的に危ぶんでいます。

 この感じ方は、何故だろうかと考える必要もあると思いますが、わたしは「チガウ」と叫んで席を立ってしまう気がするのです。

 たしかに人間だから、症状や反応、には機能不全家庭で家庭で育った子と似た印象を与えてしまうのだろうけれど、普通の人ならイザ知らず、職業としての精神科医から、このように語られてしまう事への、どうにも収まらない気持ちが沸々と沸いてきます。#とは言っても、医師としても他に言い様がないのかもしれませんが。

 ただ、わたしは、養護施設出身者独自の問題が、集団だけで育った問題が、人生の初めから捨てられ切っていた問題が、対象者なき子ども時代が、

 家庭で育った子の問題の中へ埋没していく事に、焦燥感を覚えて仕方ないのです。せめて精神科医なら・・・と思わずにいられませんでしたが、多くの家庭の方はわたしが何を言ってるのか理解しづらいと思います、これはわたしの文章での表現能力の限界でもあります。

 ・・・・家庭の人と違うと言い続ける事も、それはそれでしんどいのですが、明らかな違いを証拠として提示できない、違いをうまくコトバで表現できない、その辺がとても悔しいです。

| レイ@誰もいないという絶対的な虚無 | 2007/12/10 01:14 | URL | ≫ EDIT

2年くらい前に、この本のモデルになっている人がいると聞いて、その方(自立支援ホームの指導員?女性)の講演を聞きました。
 
 同じではないけれど、似た状態になる・・・っていうのは、(親からの過剰な期待や、コミュニケーション不全)特徴のひとつらしいですね。
つまりは親からちゃんと人としての会話や、人としてどう生きていくのかと言うことを教わらない(教われない)と言うことでは、「同じ」と言うくくりになると言うことかな?などと思いました。

古い本だから、言葉の使い方にも「差別的」だと思う面もあったけれど・・・・。
非行も不登校もある程度逆らえる情況にあるからできることなんだと私は思っています。

| kasumi | 2007/12/09 21:17 | URL | ≫ EDIT














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