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読書:他の養護施設の子の話と自分の過去との心理的距離間

わたしの本棚:読書に関する思考錯誤

 思わぬ読書ラッシュで、思考が貝のように頑迷になるまえに、ここで文章化トライしておこう。リアル世界でわたしを知っている人以外にとっては、わたしはアノニマスな筈だから。

他の施設の子の本を読むということ

 「和子6才いじめで死んだ」の余韻に包まれて日々生活しているが、人間の感度については時々、精巧とは言いがたいアバウトなわけ方をしているなあと感じてもいる。

 施設のこういう話を読んだ時の、奈落の底を歩いているような失望も希望もない懐かしい感覚を文字通り懐かしいとしか表現できない事に少し苛立ちを覚える。こういうのはなつかしい感覚に浸されるという表現でいいのだろうか、判らない(やれやれ)

 さて。
 
 今回、和子さんの暴行死の話を読み、救われた思いがするのは、淡々と分析する項目が並び、必要な資料が本の大部分を占めていたので、心が付いていかなくても読み進める事ができる内容であった事が、わたしにとって救いだった。

 しかしその代わり、感覚的なものに触れた部分があったようだが、その部分で立ち止まらなかった。『事件の表面に現れている事実としての結果』と『結果を受けての分析と裁判内容』へ自分自身が埋没してしまい、読み終わった時点では、何かの気配が、空中に浮かんだままである事を、放置するつもりだった。

 でも本当は、この本に乗じて自分の都合の良い様に、話を作っていないかという自分への強い不安があり、自分の感覚はうそではないのに言葉にするとうそを付いているようで、そこをツッコミ入れられるのがイヤで、文章化というものをせずに放置する事にしたというのが実情だった。
 
他の施設の子の話を読むときの感覚

 昔、恩寵園の話を読む時、読み終わるのがやけに早いと自分で感じていた。きっとさりげなく読むのを避けるシーンがあったのだろう。本を手にとって読むけれど、自分の中では焦点があわせられずに現実を淡々と記載したシーンだけを読んだ。でもどのシーンを避けて読んでいたのか、その問題のシーンを忘れてしまったので指摘できない。

 神の国寮の話の時もそうだった。施設の話をしているというのに感覚というものがなかった。どの部分を読んでも昼間の夢を見ているような感じだった。
 
 岡山の裁判の場合は傍聴する時に、半分だけ記者モードになっていた。でもさりげなく避けるシーンがあったような気がする。何故か音声に出したり文章に出したりする事に対して、自分の事とは違う世界なのに、自分の何かまでもが、世間に漏れ出すような、暴露?発覚?なんと言えばいいか判らないけれど、外へ流れる事への抵抗がアンダーグラウンドで働いている。とりあえずハイテンション。

あくまで自分の感覚は保持しておきたい

 こういう気持ちのまま、他の人の本を読み進めると考えがまとまらなくなり、どれが「自分独自の感覚か、今読んでいる本に記載されている内容そのものか」判らなくなってくる。

 でも和子さん事件の内容は、筆者の個人的な感想は最小限にとどめてある為、読者である自分が感想や気持ちを書いても、きちんとそこは識別できるので、他人の表現を借用していないか心配せずとも安心して、気持ちを放出する事ができた。

家庭の子の話を読むとき

 改めて思うが、家庭の子の話は、わたしにとっては地雷ではなく遠い世界の話で、使う共通キーワードも少ないし、世界観というものが全く違うという事が今回(自分なりに)わかった。あるゲストの方とのやりとりで、無知の涙の主人公が養護施設へ入っていればという話を受けて、議論が少し起こり、今まで読む事を控えていた施設を出て罪を犯した子、入所中に暴行死した子の、2つもの本を読んだ。

 この後、無知の涙を手に入れて読んでみようと思う。 

|  わたしの本棚 つんどくリスト | 06時48分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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