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元・無愛着児童の心理的な流れに関する自動処理と陳腐化

養護施設を出てからの問題

 昔つきあっていた彼は大家族の長男だった。
 夫もやはり大家族の長男だ。

 幾度か公認も非公認も含め、付き合う人にはいつも誰かが居た。

 ある日そのうちの1人から

 「そんなに僕の家族が僕に居る事が、君の僕を思う気持ちの支障になるなら、孤独で捨てられた施設出身者の男性でも見つけて結婚すれば?」と言われた。最終的にその人とは別れたが、するどい指摘だったと今は思う。その人の家族から結婚を反対されたこと、その為、彼への思いを貫けなかった自分の気持ちに、彼が傷ついた一コマ。多少記憶に残った話。

息子に返る夫とその母

 夫に対しても、彼に子ども時代から繋げてきた家族がいる事が見えない壁ではないかと感じている。わたしは相手に家族や思う存在がいると知れば、自分はスッと居なくなるしかないと感じる。相手に家族がいる、自分には誰もいないという、何故か懐かしくも凝視できなくなる構図にハマる。

 これは、相手に恋人がいるとかどうかという色っぽい話じゃない。相手に恋人や浮気相手やが居る、居ないじゃなく、家族が居るという話が自分の地雷なのだから自分ながらに興味深い。

 自分には誰もいないけれど、その人にはいるのだから祝福して、自分の存在をその人の視野にかぶらないように気を使うべきという「べき論」が何故か20代の頃には出来上がっていて、その癖が抜けた事がない。

 これが、家に帰る子を祝福し続けた事の心理的影響からくるものだろうか。子ども時代に、自分達には誰もいないけれど、帰っていくあの子には居る。わたしは家族も誰もいないけど、それは仕方ない、でも、絆相手が居る子には近づけないという気持ちも沈殿物のように残ってしまう。

 確かに家族がいる家庭出身者をわたしの心理が邪魔してなかなか受入れる事が出来ない。はじめっからターゲットから外してしまうことも、施設育ちの自分のメンタルの特色かもしれない。

「わたしにはいない、その人にはいる」

 夫が居て当然の家族の輪の中に、姑さんから許されて入り込んだけれど、姑さん(母)が夫(息子)へ向ける、わたしの今までの人生で一度も見た事のない母親の顔をみたら、わたしは早々とこの場を立ち去りたくなる。居心地が悪くなる、わたしがここに居る理由がわからなくなる。

 そういう風に自動処理していく心の流れがいつの間にか作られてしまったのかも。でも施設出身者は家庭で育てられた人と結婚してほしいという発信スタンスを持っている。家族を知らない同士で共にいても施設化してしまう。

 というか、施設育ち同士だと無自覚な場合、傷(あるとしたら)のえぐり合いになるので、孤独だった頃より更に孤独になるだろうと思うのだ。だから施設出身者同士は集まらない方がいいと思っている。

 子どもの育ちにとっては家族を知っている人の子育ての協力が必要だと思う。心の癖の為、家庭育ちの男性を遠ざけるのなら、わたしは結婚すべきじゃないという論理へ向ってしまう。

 でもそれはすでにわたしの生き方としては陳腐化しているにも関わらず、旧態依然の思考が残存し続けていて行動へ反映されてしまうという問題でもある。

フローチャート風簡略メモ

 【お前らには誰もいないけど、それをバネにしてがんばれよ】という概念

  ↑ 
  これを前提として作られた思考は流れやすい方へ流れる。
  ↓ 

 「わかった、自分には誰もいないけれど、がんばる」
  ↓
 「わたしには誰もいない、あなたにはいる、それではさようなら」
  ↓
 
 【わたしは、やはり1人で生きていくしかないのだ】とさらに概念を強くする。

   繋ぐ作業をしている時に、切る作業をしてしまうのは、絆を繋ぐ作業に慣れていない為だろう。自動的に処理する心理についてのメモ代わり。

 

|  養護施設を出てからの問題 | 07時45分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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