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神の下の平等:正しくは家庭を知らないのではなく、家庭を誤解していた

施設にいる間の問題

わたしの中の家庭像

全て「自分たちには親がない」という前提の下のスリコミ

 わたしは家庭を知らないと言った。たしかに施設だけで子ども時代の全てを育ったので体験した事がない。それは事実だ。でももっと正しく表現するなら、家庭というものを施設時代に、変な風にスリコミされたのではないかと推測している。

 施設の中には、施設の中に家庭のカケラ一つない施設もあって、そのような施設の子は家庭や家庭の子を目にする機会もないだろう。時々引き取られて施設を去っていく子があったとしても、その子が家庭へ引き取られていくという事がどういう事かも理解できないと思う。
 
 しかし別の施設では、施設の中に職員一家が住み込んだり、同じ敷地内に住んだり、しょっちゅう出入りするような事があったりする。わたしはそういうタイプの施設にいたのだと改めて知った。

 施設内にある家庭の領域は特別な場で、自分たちは立ち入り禁止の場所として厳しく教えられるのだと思う。もし、そのような場所へ立ち入れば、ひどく叱責されるのではないかと思う。

 わたしが出た施設は施設職員が住んでいた。家族持ちも独身保母も部屋を与えられて(全ての職員ではないらしい)いた。

 わたしの中の家庭像というのは、そのような、施設の中に居ながらた外から見た家庭像、家庭の子だったのだと思う。今も残る家庭に足を踏み入れる事への恐れ、恐怖まではいかないが、その気持ちに近いものを絶えず感じる時の気持ちを考えると、わたし(達)はいらぬスリコミの為に、家庭へ近づけないのではないかと思う。

 わたしにとって家庭とは入ってはならない場所、家庭の子というのは、わたし達「親無し」とは違う特別な子だった。世間では普通の子が、施設のような持たざる者の中では持てる者だった。

神の元の平等

 わたしは家庭の子に対して複雑な心境を持っている。施設だけで育ったのに、一方では家庭の子に対する言語化が難しい心理を持っている。わたしにとって家庭の子であるというだけで特権階級であり、平等を謳う世界の住民としては自分とは関係のない別のカテゴリに分けるしかなかった。

 「お父さん」と呼んでいるのはその子だけ。

 他の園児は全て「先生」と呼ぶのが普通だった。

 その子と自分たちがまったく違う扱いだとしても、その事で騒ぎは起きなかった。

 施設ではいつも集会の度にその先生から「神は平等である」と教えられていた・・・

 だから親から捨てられた子たちはそのように考えていた。その子には父がいるけれど、わたし達には父なる神がいるじゃないかと教えられていたと自己解釈していたので、わたしは平等だと思っていた。

 そう思っていたけれど、今思うと何かが違うのだろう・・・。

 でも宗教的な思考に染められていたので、何が平等かわからないまま、平等なのだと思えてしまっていた。わたしも又、神さまからの特別な子だと思うことで、家庭の子にはない恵みがあると思い込もうとしていたのかもしれない・・・。

 わたしには生身の人間の親はいないけれど、父なる神がいるかぎり、きっとわたしも特別な存在だと思うように自分の心を作り上げていたのだと・・・。

 結局施設を出た後、

 まるで夢幻のような施設生活を生き延びて、残ったのは疲れた気持ちだけだったように思う。そして、やはりというか・・・やはり誰もいなかったという気持ちと、神に丸投げの誤魔化され続けた日々だけが残滓として残った。

捨てられた子たちに、わざわざ「お前らは捨てられた」と教えるような事をしてないでほしかった。その一方で「お前達には父なる神の愛がある」という言葉で盲目的に神に向かう事を強制する。

 捨てられたことさえ神の大いなる計画だと思わなければとても自分達に誰もいない事を納得させる事はできなかった。愛着や後追いを全て、神に向かわせる一方で、人間的な親子愛が施設の中で、家庭のモデルとしてわたし達の目に焼きついた。
 
 少なくとも家庭から措置された子はなんともなかっただろう。でもわたしは、あの世界観がそのまま、わたしの家庭観になってしまった、刷り込まれてしまったのだと推測。

 相変わらず、家庭を求める、たった一人の大人を求める、絆を求める事を、火あぶりの刑に処せられるような恐ろしさに直結する。そんなわたしの気持ちは、絆作りを邪魔する。

|  養護施設にいる間の問題 | 05時26分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

 Leiちゃん、ネットでは、あけおめ、ことよろ。

 あたしの施設では住み込んでいる職員はシスターやシスターの候補生しかいなかったから、変な家庭イメージを植えつけられずにすんだわ。

 でもね。

 人は家庭から出て、施設に入り、家庭に戻っていくんだなと思ってた。あたしたち、長期入所の子を除いて・・・。

 だから、Wolfさん言うところの反愛着にはならずに、単純な無愛着のままだったと思う。あたしは、家庭を見ると物珍しくてついつい長居してしまう。

 食事時まで居るのは不躾だという感覚もなく、少人数の閉鎖空間が興味深くてついつい、長居してしまって、迷惑がられていたと思うの、今にして思えば。
 
 そんなあたしが、じゃあ、家庭を作れるかというと同一の人と何年も居続けると、そろそろ部屋変えの時期? 家庭に帰る? 施設を出て行く? そんな気持ちが生じてリセットしなくてはいけない感覚になる。この人とは終わりにしなくてはならないという強迫観念に駆られてしまう。

 相手が居なくならなければ、自分が居なくなることで、その強迫観念を実現しようとする。

 という事にWolfさんの指摘で気づくことが出来たのよ。

 でもね、気付きと行動パターンの修正は、同じではないの。気付いたからといって行動が簡単に変えられるわけではないの。このパターンを変えたいという、強い動機がなければ現状を肯定する理由付けにされてしまう。

 あたしたちは、絶対に居なくならない関係を学ばなければ、安定した家庭を作ることはできないと思う。家庭作りと安定した絆作りが、同時進行という問題はあるけど、それをしなければ、あたし達は結局一人になることを選択してしまう。

 間違って学んだ心の生活習慣病を治すために、今年もがんばりましょうね。Wolfさんとは今年で十年目、あたしとは七年目よ。

 がんばって、絆をつなげ続けましょうね。

| Maria | 2008/01/04 20:47 | URL | ≫ EDIT

 明けましておめでとうございます、でんでんむしさん。ご挨拶をどうもありがとうございます。間違えてでんでんむしさんのコメントを消してしまいました、すみません。

 でんでんむしさん、養護施設出身者とあなたの立場では違う部分がいっぱいあると思いますが、少しずつ、お互いの言葉でやりとりしていきましょうね。

 よろしくお願いします。

| レイ@でんでんむしさん、ごめんなさい | 2008/01/04 13:59 | URL | ≫ EDIT














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