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自問自答:簡略に描いた今の思考に至るまでに自分が辿ってきた思考

メンタル整理

自問自答

 ★一部表現に虐待の当事者にとっては不快な表現が含まれていると思われます。試行錯誤の為にどうしても必要でしたが不快になりたくない方はこの先はお読みにならないようにお願いします。



わたしは「自分が虐待を受けた覚えがない事」をどのように捉えているのか書き出してみよ。

 ・わたしは虐待を受けた覚えがないのをもってこっそりと安心しようとしている。
 
 ・わたしは虐待を受けた覚えがない事について誰からの足跡もない事による寂寞を覚えている。

 ・わたしは虐待を受けた覚えがないと言っていれば虐待を受けてない気持ちがする。

 ・わたしのようなものが色っぽくもないのに虐待を受ける筈がないという気持ちがある。
 
 ・覚えがないという事は何もなかった事だという気持ちがある。

 ・わたしには性的虐待の利用価値さえありはしないという気持ちが沸いてくる。
  (それは、個人的な関係性を持たない立場の親のない子ども達という前おきがある?かな)

  
上記の自分の答えを読み一番真の気持ちに近いものを、自分で項目立てしても良いから、それぞれ一つピックアップせよ。

 
 理性では
 
 ・覚えがないという事は何もなかった と表現したい。

 誰にも知られたくない感覚は

・わたしは虐待を受けた覚えがないと言っていれば虐待を受けてない気持ちがする。

 誰にも知られたくない不安な感覚は

・わたしは虐待を受けた覚えがないのをもってこっそりと安心しようとしている。
 
 一番強く日常的に封鎖している気持ちを一つ上げよ

 ・わたしには性的虐待の利用価値さえありはしないという気持ちが沸いている。


現時点での「施設での虐待に関する」思考の仕方について改めて思う事があるか

 「虐待の覚えがない」という一つの現れている事実について、自分に納得のいく答えを自分で騙し騙し探しているように見える。覚えていない現象を大事な切り札にしようとしている。心に安らぎを求める為に「何もなかった」と強く思いたい、思うのはたやすい、だって覚えてはいないから。

 「覚えていないという事は何もなかった事なんだよ」と自分に言い聞かせてきたので、時に変な気持ちになる事があっても自分の揺らぎを説き伏せてきた。

 しかし同時に

 「お前ら捨てられたものに利用価値があるとでも思っているのか??」

 という自動ナビゲーションの音声が心の中に流入してくる。振り払おうにも難しい。何故、お前ら、捨てられた、利用価値、などという単語で構成された文が構成されているのかマジ判らない。

 上記の結果を受けて

 わたしの日々の発信の動機として残された思考は

 児童養護施設では虐待の有無以前に捨てられている子ども達は、捨てられている事をもって、職員や上級生の児童やらから、虐待というよりは暴行、リンチ、などが普遍性を持って行われやすい環境であるという事を問題にすべきと、自分を突き動かしている。

 その思考の流れの中に、養護施設から逃げられない状況でのCAPについてもなかなか希望を見出せない。CAPは地域の子どもの安全と保護と意識の改革の為には必要な事であったろうとは思えるが・・・。

 施設のマイノリティである遺棄・養育放棄された要養護児童のうちの1人である自分は養護施設出身者全員の気持ちを代弁しているわけではないと改めて思った。今でも施設内で「虐待」と表現する事には違和感がある。

 ・・・沖縄でアメリカ兵による暴力事件が起きた時、被害者はアメリカ兵による虐待を受けたとは表現しない。満員電車で痴漢被害を受けた女性は、虐待を受けたとは表現されないと、ふと、思った。

| ├ メンタル整理 | 07時09分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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