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「家庭育ちである他者の表現ツールと化していたわたしの無価値な立場」に関するゆるい整理

メンタル整理:施設全部育ちは代弁者じゃない

 ある家庭育ち施設育ち半々の人の混迷について思うこと

 【覚えてる範囲に限られた】体験話を書いても、自分が本当の意味で、まだ無責任な誰か達から無価値ツールとして扱われている感覚を取り戻してはいない気がする。なので、自分を本当の意味ではまだ何もさらけ出していないと少しばかり焦る。

 いくら加害の体験を書いても、書いても、隔靴掻痒ならぬ、隔脳掻痒のような、痒い脳みそを骸骨の外から掻こうとしているような気がする。わたしにとって加害体験を書く事は、暴き出される現実ではあるけれど、さらけ出される無力感とは別のモノのような気がする。だから致命的ではないような気がする。わたしが致命的になる為に何かが尽くされていない。

 エスカレートしてはいけないとは確かに思う。自分の見えない過去を表現したいあまりに何でも店開きしようとする行為を繰り返してはいけないとどこかで思うのに、ついエスカレートしがち。わたしは他から消費されている感覚に疎いところがあるので、時々、気をつけようと思う。

 ブリトニーさん、名指しで申し訳ないけど、あなたの態度には人任せなところが感じられる。わたしはあなたの気持ちに叶う文章を書く必要はないと思うのだけど?自分の気持ちくらい、どんな不器用でも自分で把握してほしい。

 他者のツールと化していた事へのゆるい気付き

 今までの知り合いには「存在に価値がある事を取り戻そうとする」「見捨てられ感覚を自分のものにしたい」家庭育ちの知り合いが多かった。彼女らは、彼女らから見て親のない、存在に価値がない人であるわたしの側に居ようとする人が多かった。彼女・彼らは今思えば執拗に、親から捨てられた感覚をわたしから聞きたがった。
 
「ねえ、教えてほしいの。アニーという舞台を見たでしょ?、あなたあれ見てどうだった?」
「ねえ、誰も来なかった感覚ってどういうもの?おしえて、ねえ、どうしてそんなに明るいの?」
「ねえ、今度私、週末里親になったの、ねえ、おしえて、施設育ちのあなたなら分かると思うの、ねえ、うれしいものかしら?かわいそうな子を週末面倒見る事にしたのよ」
 
「ねえ、わたし、あの子目つきが悪いから心が持たないから週末里親はやめるわ、ねえ、養護施設の子はみんなあのような目をしてるの?」
「ねえ、今度は有精卵を買いすぎてひよこが大量に生まれたの、ねえレイちゃん、あなた、ひよこの里親を募る方法知ってるかしら?ひよこには一応番号は付いてるのよ、名前の代わり。3番のひよこが一番可愛いわ」 

 この世で初めて聞いた「里親」とは、こういう形で知る事になった・・・。
 
「あなたを見てると、少なくとも私は価値がないとかは思わずにすむし、力をもらった気がするの」 

・・・上記は、本当にあった知人たちとの会話なのだけど、改めて羅列すると内容がシュールだ。このような自称親友たちから、いつもいつも施設育ちとしての感想を求められていた。わたしは彼女らといると、ロールプレイングゲームで吐き出しのために使われる人形みたいだと感じてた。【RPGの吐き出しの為の人形を実は体験した事がないですが、想像】

 人形は人間としての価値はないところに、人間の吐き出しのためのツールとしての存在価値があるから・・・。泣かないし、逆らわないし、何も感じないし・・・だから相手がどんどんエスカレートした。

 でも彼女らは最終的には「力をもらった」という表現を使いたがった。虐待の無力感や見捨てられ感覚を、本当に捨てられ切った無価値な相手を見る事により、力を取り戻しているのだと感じた。何故なら彼女らと会った後の自分は、根こそぎ何かナケナシの雑草パワーを盗まれたような感覚に陥っていたから。

 親から虐待されている感覚を親からの裏切りと捨てられ感覚を持つ家庭の子は【本当】に親から捨てられて養護施設で長期居続けたわたしから、その感想を搾り出すことで、自分の感覚としてコピーしようとしているかのようだった。

 わたしはいくら表現を駆使しても、見捨てられ感覚を代弁できなかった。彼女らもエスカレートする。捨てられる感覚を聞きたくて。しかしわたしは「親が無くても子は育つ」とばかり繰り返していた。彼女らは、いない親の話を聞きたいのか、いない様な気がする親の話を聞きたいのか分からなかった。

 物心付いた時では「捨てられている事」には気付けない

 気付いたら児童養護施設にいるという事は、捨てられた後の話であり、捨てられる不安を知らない事でもあるのに、家庭の人は虐待を受ける事での裏切られ感と見捨てられ感を、施設育ちのわたしに代弁させたがっているように見えた。

 ネットでも家庭で育った施設体験者の方が無自覚なのだと思うけれどわたしに苛立ってしまうようだ。ならばわたしの発言など見なければいいと思うのだけど・・・どうやらMariaの表現によると、わたしの独特さ?は、ある種の人からは誘蛾灯のような役割をしてしまうらしい。

 絡みつく人たちをきっぱりばっさり言葉で切り捨てないわたしの煮え切らない態度の問題もあるけれど、どうやらいつも誰かの何かを刺激するようだ。

 ただ、捨てられ切った後を生きてきた雑草感覚と、捨てられていそうで捨てられてるのとは違う籠の鳥感覚は、別の問題だったのだと言いたい。

 これはわたし固有の考え方になってしまうが、わたしは里親家庭へ引き取られてもうまく関係性を作れなかった人の代弁はできない。わたしが今作ってる絆づくりは大人のものであり、子ども時代を再現しているのとは違うから。【無愛着という共通キーワードを持っていたとしても】

 そして実親らしい実親ではなかった怒り持つ半分家庭の人の代弁者はできない。わたしの場合は人生の一番初めの記憶が養護施設の脱走シーンであり親の元で物心付いたのではないから、代弁は不可能だ。

 わたしが語れる範囲は自分に関する気持ちに基づいた事のみ。大人になって絆作りをしている途中で気付いた「そうか、子ども時代の全てを児童養護施設で育った事というのは捨てられていたという事だったんだ」と溜飲が下がるような気持ちならば、表現できるという事。

 その前に、他人の代弁など、いかなる人も出来るものじゃないと個人的に感じている。

 ゆるい整理をしてみた。【同じような記事ばかり書いてるが、ここがコダワリどころでもある】


| └ コラム | 06時02分 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

 Leiちゃん、
 本当にそのとおりで、あたしがよけいな意見を付け加えることがないわ。

 質量保存の法則ではないけど、「元気をもらう」「力をもらう」人がいれば、そのことにより奪われるひとがいると思うの。

 施設の子を見下し、その誰もいない究極の生存状態をみて、それよりもましな状態である自分が元気になる。力をえる。

 まさに、封建時代の「上見て暮らすな、下見て暮らせ」を体現しているわね。
 ま、施設の子の社会的役割は、底辺の家庭育ちに、より下の存在を示すことなの。

 だから、里親家庭に行くと、親のない子どもの「社会的役割」を果たせなくなるから、いつまでも養護施設におきつづけるのね。

 ところで、この記事を「施設の仔をいじめる悪い家庭育ちというメッセージ」と御注進している方がいるわね。

| Maria | 2008/04/06 13:04 | URL |














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