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棒線:読むと何故か怒りが沸く新約聖書の聖句がある

養護施設にいる間の問題【?】


それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。

小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカによる福音書12章32~34節)

marguerite



 ただ答えを探していた

 わたしは自分が何処かの時系列で虐待を受けたかどうか、自分自身でも感じることが出来ない。捨てられた事も本当は、捨てられる前を知らないので、誰かから捨てられたと自らでは感じる事ができない。これらブログの文章は主に、あの頃の状況を分析した大人のわたしの言葉だから、本当に正しい感じ方なのかどうかも含めて、子ども時代に自分が考えていた事は全てがモヤの中。

 気付いたら施設にいて、気付いたら死なない為にどうやって生き延びよう・・・しか、考えられなかった、これが物心ついた瞬間の身に迫る危険との動物的な対峙。

 わたしはこの世を生きる意志は強いし、道に咲いてる花の蜜をなめながらでも生き延びようと思う。人を押しのけるだけの体力も気力もないけど・・・。

 複数の立場の違いによる大人の意識を向けられる事に怒りがある。
 
 ある者は人間的な職員、しかしあるものは神にまつわる聖職者、牧師、信者・・・。

 わたしは長い間、宗教的な思想と共にすべてを諦めさせられていて、これは市井の人間が介在する事ができないほどの大いなるものだと思わされた事への・・・耐えがたき怒りを口に上らせてはいけないと思っていた。

 でも・・・それでは。

 ただ人の子どもとして生きたらいいのか、それともスピチュアルにあり続けなくてはいけないのか。捨てられた子は、神に属しているから、普通の家庭を求めてはいけないのか。牧師の子どもさえ、家庭で生きているのに・・・。

 捨てられた子は・・・この先、結婚は、誕生は、命は、母性は、神聖とは、わたしは女だけれど。じゃあどうすればいいのか。この養護施設で思春期の性への衝動については「姦淫するなかれ」と教えられながらもこれは特別な神のメッセージだ、聖別だと、何かの意志によって誤魔化され続けること。

 「野の花を見よ・・・」と、諭されること。

 ・・・全てが全てが常に自分の思考の背後にある。わたしはどのように在ればいいのか、生きたらいいのか、在ればいいのか。これは修道院へいかねばならないのかと思っていた意識の欠片。人として生きればいいのか、それとも・・・という、およそわけの判らない文章だ。

 プロテスタントは理由は判らないけれど嫌いだった感覚は残っている。信仰は「宗教のオイシイとこ取りではいけない」と何故か感じてた。この人たちの都合で神がいるのではないと感じてた。ただ、大人のわたしが今思う事をあの頃思ってたかは覚えていないけれど・・・。

 自分にはありながら子ども達には殉教を求めるのかと牧師や信者である職員達を見て思った。彼らは家族を持っていながら、子ども達には聖句を引用して、誰もいない事から意識を遠ざける。

 あらかじめ用意された聖書の言葉を用意し、牧師や職員は自分の頭で一切考えることなく、子ども達に家族がいない事を、諭す姿勢に対して子ども達は祈る事もばかばかしそうにしていた。
 
 自然に咲く野の花のたとえを、親から捨てられ誰もいない、又は虐待の後遺症に苦しむ子どもたちに対して利用するような世界、もう一つの見えない、養護施設ならではなのすり替えだと今なら思う。

 宗教系養護施設では、自ら考える行為、哲学的な思考を、人間が行う事への戒めがある。その戒めを、実際に家族を持てず、虐待をうけ、放置されている事への気付きから遠ざける手法として用いられていたと、わたしは今は解釈している。神を、聖書を都合よく利用するのはいつも人間だとつくづく思う。

追記
 
 この記事は、養護施設の親のない子視点での聖書の言葉の扱い方に関する、わたしの整理です。一般の教会の方々の問題とは違いますので、不快に思われる方がおられましても、どうぞスルーして下さいませ。

|  養護施設にいる間の問題 | 10時11分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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