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「単に長期間施設にいただけ」という元児童の語りたい事

問題がなかった事が問題となる

 気付いたらきっと、目の前の大人はわたしに怒りを抑えきれなかったと思う。わたしはたんに親が育てられなかっただけであり、家庭でも施設でも虐待を受ける事もなかったのだと責められている気分がある。何故なら意識にこびりついている感覚があるから・・・。

 「お前みたいな者に家庭で虐待を受けた子の気持ちが判るか」
 
 その副音声が聞こえる為、虐待を受けてない自分というカテゴライズの中で、虐待を受けてない事を申し訳なく思う気持ちばかりが先行し、自分は、自分自身は全ての子ども時代を施設で過ごした事の問題に気付けなかった。

 虐待を受けた人たちと違い、わたしは自分の寄って立つ意見が無くて、たんに親が育てられなかった程度だと自分を責めていた過去の残滓がある。養護施設では虐待を受けて措置されてきた子で無くては、大人たちから意識される事はない。

 わたしもとりあえず生き物だった筈だけど・・・。これといった何かがあるわけではないから、何か語りたくても語れない、語るだけの資格もないような気がして、結局大まかに考えて施設で全部育った事がさほど悪いことではないでしょう?と言われている気がして、自分の何かが語りづらい。

 施設では平凡で地味な子は居ない者となりやすいので、何が問題かも判らずに子ども時代を通り過ぎた気がする。

 大人になり、単に誰にも心を開かないだけという自分が出来上がった。

 それを無愛着な状態であるとカテゴライズした時に、自分の子ども時代は何だったんだろうと思えて仕方ない。虐待を受けて施設に入ったわけではない事をもって自分は語る資格がないと感じやすい心の癖はなかなか直らない。

 単に施設に居ました。長期間。

 それが、たんにそうであっただけ・・・。でも、施設に長期いましたという感覚も・・・今は自由な時代だから語ってもいいのだと知り、何とか語っている。でもそれも、よく考えたら乳児院から居たわけではないと考え始めたら止まらなくなった。【Mariaにも色々と勝手な論旨の展開をして迷惑掛けた】

 この「単に」という感覚は自分の生き方に今も影響を与えている気がする。何もなかった事を幸せと思うのでなく、むしろ後ろめたさや責められる理由だと考えるのは、養護施設での大人の側からのメッセージの名残りだと思う。その、大人たちのメッセージは、今も何も無かった自分を何も無かった罪で責め立てている気がする。養護施設は虐待されている子が措置されているのだから、大人は知らず知らず、虐待の有る無し、又、重篤さに応じて、子どもに対する対応の差異として現れるのではないかと思う。

 わたしのような、こういう平凡で、何もなかった児童はどんな問題を持っていたのだろう・・・。それとも問題がなかった事が問題か。

 こうなると時々整理できなくなる。ただ単に施設にいたというだけの自分が無愛着だったというだけの話なのだと思い始めたら、わたしは自分の気持ちが我侭でしかないように思えてしまう。

 そう考え始めたら自分の考えが瑣末に思えて仕方なくなる。しかし瑣末であろうとも尚語ろうとするところに、自分なりのまだ見えないコダワリがあるように思えるのだけど・・・。

 無愛着だった、単に。一度も自分の事が何かしら問題化した事がない。でも・・・という感じだ。

 夫からは「虐待されなかっただけでも良かったじゃないか」と言われるが、虐待もされなかったかもしれないが、誰からも相手にされたことがないという事も同時だったような気がして、夫の意見に素直にうなずけなかった。かといって、上記の文章の流れでは「相手にされる」事は危険なイメージがあるので、それもまたおかしい感覚だと思う。

 わたしほど何もなかった人間はいない、しかしわたしほど空っぽな人間もいないと施設を出てしばらくの間、口癖となっていた。今思うと何が言いたいんだ?と自分にツッコミ入れたくなるが。

|  養護施設にいる間の問題 | 19時04分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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