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人間の関係性の種類について果てしなく無知である事

養護施設を出てからの問題

 Mariaのレスで「出会えなかった子ども時代を肯定するために、いまの出会いを否定しようとする。 」とあったのだが、もう少し自分なりに考えてみると、出会いには種類があるのに、人間関係の多様さを知らないので、対応しきれていないのではないかと考え始めている・・・。




 結婚家庭と自分の関係

 その出会いにも幾つかの種類やルールがあるようだ。養護施設だけで育った人間は多様【強制的な集団生活を多様な人間関係と思わない】な関わり方というものを体験した事がない。いつも施設職員と児童の関係性しかなかったのだから。【しかし実はそれは関係性ですらない。その場限りの大人でしかないと感じている】

 それは固定された相手を持った事がないので、他の種類の人々との関係性の距離が理解できないという事じゃないかと思っている。

 だから、「結婚して出会えたんだからもう孤独じゃないね」とわたしの過去を知る人などが言っても、実はピンと来た事がなかった。孤独じゃないという意味がもともと判らなかったし、人間の距離感が掴めないので、何を軸にして考えればいいか判らなかった。

 今理解している事は、わたしの嫁いだ家庭は、わたし自身が受け止められる為の家庭ではない。夫を育み守ってきた家庭ではあるけれど、わたしの世間知らずや誰も居ない過去を埋めるツールとしての家庭ではない。わたしが施設だけで育った問題はわたしの問題であり、夫や夫の一族が責任を負うものではない。ましてや育ちなおす場所ではなく、大人になった自分の家庭力がそのまま即戦力として求められる場所だったのだ。

 わたしはあくまで「嫁」であり、言わば嫁としての条件付きで居られる家庭なのだと実感している。それは各家庭色々と理念があるのだろうと思うのであくまで自分が今嫁いでいる家庭への認識であるが、結婚した家庭というのは「生まれてきた自分自身を無条件で受け入れてくれる場所ではない」という現実を認識しておきたいと思う。

 ソウルファミリーと自分の関係

 今、想像上?の家族関係を施設育ち同士で作っている。それをプロジェクトと銘打っている。現実にはわたし達が帰る場所はどこにもない。この世界に子どもだった自分達を認知している家庭も人も無い。誰もいないという事はまことに誰もいないという事なのだと知っている。

 でも施設外世界での生きにくさを持っているのでその問題が何処にあるのかを考えているうちに3人に共通の愛着障害の無愛着に行き当たった。

 それいらい、わたし達に必要なのは「固定された居なくならない相手」だという事を理解するようになり、3人三様に自分の課題を掘り下げつつ、やがて里親さん応援サイトなど立ち上げ、あれほど近寄れなかったシドさんサイトまでお手伝いするようになり、今に至っている。

 ただ、施設時代に染み込んだ観念や施設内規範や集団を縛っていた諸々の問題は簡単に修正はできない。誰も居ないという世界しか知らなかった中で、誰もこの世に居ないなりの子ども時代を無自覚に生き延びてしまったので、まずは誰もこの世に居なかったという認知から出発しなくてはならなかった。その点で一番認知が遅れている自分が3人の中で問題児となっている現状がある。

 人には体温があるという学び




 結婚して家庭を得られても子ども時代を埋めるものではないという学び、そして、ソウルメイトとの絆づくりの中で、子ども達には固定された居なくならない大人が必要であるという事を学び、同時に、固定された相手は変化しないままで、他のグループの人々との関係性を見出す事が出来うると思うようになってきた。

 わたしは知らなかったのだと思う。人間というのは、顔の見えないケーキのおばさんや、育てても無い実親や、顔の見えない多くの人々や、入れ替わり立ち代り去っていく職員や保母という記号のような存在や、いつの間にか居なくなる他の児童ばかりでない世界を・・・施設時代は、実体のない人ばかりを「居る人々」だと教えられてきたので、実際にソウルメイトたちの様に血が通っている人々だったとは知らなかったのだ。

 施設にずっといると人間がまるでゲーム画面のキャラクターのようにいつでも沸いて出て来ていつの間にか居なくなり、死んだ筈が生き返り、生き返った筈が消えているという感覚だった。

 人間に体温や実体があると知るまでは全てが全て顔のない人々と変わらなかった・・・。冗談を言ってるのではなくほんとの気持ち。これは誇張でも何でもない。

 この実体感覚の無さも無愛着に拍車が掛かっているような気がする。養護施設時代を通して一体わたしは集団性の優位性なんて学べたのか?と我ながら疑問符ばかり浮かんでいる。

|  養護施設を出てからの問題 | 04時03分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

安全基地になりえる長期記憶

 なるほどねMaria、

 養護施設での人間関係は短期記憶以上にならないというわけだね。

 つまり・・・愛着と記憶が連動しているというのはわかりつつあるのだから、心の安全基地として乳幼児がボンドできるような、長期記憶の相手が必要だという事なんだね・・・。

 ただし脳としては、それが良いボンドか悪いボンドかを見極める機能はあまり無くて、この相手が長期記憶にカテゴライズされたか、短期記憶にカテゴライズされたかを判断するしかないのかもしれない。

 もっと高機能な脳の生理は他の神経との連動が起こるのだと思うけれど、非常に興味深いなあと思ったよ。
 
 長期=安全基地だとすれば、虐待する親にボンドする子どもの脳の働きも見えてくる気がするし、反対に、どんなに「あなたを思っている」と言われても、すぐに消える相手は安全基地になりえないのかもしれない。
 
 ・・・このあたりを自分なりに整理してみたい。


 

| Lei@相関図マップ | 2008/08/11 09:10 | URL | ≫ EDIT

流れゆく人、移ろいゆく人

 養護施設という場所は、常に人の流れている場所だったわ。

 人の顔が覚えられないというのも、覚えてもいなくなるから、覚える気もなかったのだと思うの。記憶って、一緒にいる時間の長さだけ蓄積しているのだと思うの。
 一時記憶が、長期記憶(エピソード記憶)に移し替えるとき、人のメモリー(思い出)となっていくのだと思うの。

 養護施設の記憶は、ほとんど一時記憶ばかりだったわ。

 それにしても、あたしたちには、見事に誰もいなかったわね。

| Maria | 2008/08/11 07:08 | URL | ≫ EDIT














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