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非接触の距離感覚は心理的距離のものさしになる

メンタル整理


 冷たい対象物への回帰

 自分が、冷たい対象物【冷たい床とか、雪の中とか、氷とか、冷えた像とか、硬いレンガとか】に、理由の判らないながらに引き寄せられる行動を取るのは、そこが自分の生まれた世界に最も近いという感覚に回帰するような気分なのではないかと思い始めている。

 だから冷える事にはひどく無頓着でもあり、もし将来事故で命を落とすとしたら、街中で凍死するかもしれないと思ってしまう。
 
 硬い対象物への回帰

 硬いガラスや真鋳の細工物などには惹かれるが、やわらかいものには特に惹かれない。女性の姿を象った物はマリア様の像のように硬くて白くて冷たいものだ。やわらかいもので女性の形をしたものをまだ知らない。

 ぬいぐるみを好きではない事を、家庭育ちの知人から指摘された事がある。彼女はぬいぐるみを部屋に飾っていないわたしに対して、一言だけ「変わり者」と言っていた。柔らかいものに対してとくに気持ちが動かないのでぬいぐるみを必要としなかった。

 非接触の距離感

 他の人間と手を繋いだり、肩を組んだり、腰に手を回したりなどを嫌っているのではない。たびたび他人からそう指摘される事が多いのだが。わたしは、他人との接触を思いつかないからやらない。でも他の人を見ていると、ごく自然に手を取り合い一緒に歩き出す。肩を組もうとする相手の気配に答えるかのように身を寄せる。そのような事が自然のリズムの中で、ごくさりげなく身についているようだ。

 肌の記憶の存在の仕方

 乳児院ではないほかの集団養育の場所【なにか子ども達がプールされているような場所】がこの世界のどこかにある気がするといったら、又頭がおかしいと思われるかもしれない。乳児院とは別の、様々な養育者が変わるような場所で養育された場合も、恐らく無愛着になるだろう。

 夫は赤ん坊の頃、母親の肌のぬくもりと匂いと声と柔らかさをセットで体感していたと言っていた。脳で覚えた記憶ではなくて、明らかに肌が記憶しているのだと言い切っている。そんな事は資料等を読むと書いてあるが、まさか、それを言語化できる人間が居たとは・・・。

 夫の言葉をそのまま、自分に当てはめるとしたら、わたしの固いマザーの冷たさと無臭と声のない静かな微笑と石の台座なのだろう。そしてあるいは、哺乳瓶を含ませてくれた幾人かの大人たち。それらは所属のバラバラの常に去ってゆく事が決定している人々のように感じている。

 夫と自分の場合は比較というものがたやすい。彼もわたしも乳児の頃の養育環境を肌で覚えているのだろう。そして思った事とは、乳児は、良い環境も悪い環境も自らが判断して拒否したり受け入れたりするのではなく、その環境に適応してしまうのだ。その適応している環境に応じた人格形成の基礎を構築していく。

 だから時間がないと感じる。乳児はゼロ才のうちに、書き換え可能なうちに固定された相手のいる家庭へ迎えられてほしい。その後で無愛着を修復するのは並大抵の事ではないと思った。

 しかし自分については、無愛着人間である事を知った以上は、柔らかくて温かいものに質を求め、尚且つ、冷たいものへ回帰しないように、背後の道を絶つしかないだろう。

| ├ メンタル整理 | 01時44分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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