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学習能力の低さと諦念感覚とを携えて生きている

養護施設にいる間の問題

 強い本能が何事にも優先する

送信者 Lei Pictures


 施設を出る頃に成績表を貰わずに出てしまったので、具体的に確認はできないが、顕著な事柄として、わたしは小学~卒園までを通して成績が非常に悪く、特に記憶に関する事柄は著しく悪かったと思っている。わたしはいつも自分がクラスにいる為に平均点を下げている事をクラスメートから責め立てられていたらしい。【そのような気持ちの残滓がある】

 その前にわたしは二度目の施設入所時にIQテストを経て、学年を1つ下げて小学校に入学したので【たぶん】もしかしたら軽い知的障害、あるいは学習障害の傾向があると判断されたのではないかと推測している。何故なら大人の今でも記憶保持や処理に問題があるのだから、あり得る事だろう。

 わたしは本能的なものは強く備わっているにも関わらず、人間の社会生活を行ううえでの学習能力が著しく欠如していたのではないかと思っている。

 つまり、他の人間の介在を必要としない本能的・動物的な防衛反応や攻撃的な反応能力が高く、反射神経だけで生きていたような気がするのだ。しかし、一方では、人間を相手にした時の情緒的な交流、言語、スキンシップ、概念の共有などについて、とても困難を覚えるタイプの児童だったのだ。

 


 交流と共感について

 わたしは、人が介在しなければ、それこそ野山でオオカミに育てられた子のように生きてゆけた。しかしわたしは人間の子どもだったので、どうしても社会的な生活を行っていかなくてはならなかった。しかし安全基地を持たないままで、大勢の人間の意識に常にさらされる養護施設での生活は、自分の脳のキャパを超えた処理能力を求められていたので、いつも脳が忙しくて熱でショートするような感覚であった。【かなり推測】
 
 たとえば相手が喜ぶことと嫌がることを考えた場合

 相手の考えている事を予測したり、交流する事を通して態度を決める事など、人間関係を作る作業も知的活動の1つだと思う。相手が悲しがるような事はしない、相手が喜ぶ事をする・・・。

 しかし、わたしはここでいつも、相手の喜ぶ事とは何か、相手が嫌がる事とは何か、という定義1つでつまづきを感じる。わたしは気付いたら漠然と考えていた。この世界で自分の何かを守るためには、共有してはならない、共感してはならない世界があると思っていた。

 たとえば

 「大きい子から命令されて小さい子を殴れば大きい子は喜ぶが小さい子は嫌がるだけ」という事をいつも命題として突きつけられながら生きていた。わたしはどうすべきか?と。

 学習する為に必要な環境
 
 安全で安心できる基地もなく、集団の子ども達の全ての意識が飛び交う施設という戦場で一体何を学習すればいいのだと漠然と考えていた節がある。なので自分は聖書だけか話し相手だった。もちろん周囲からは嘲笑されていただろうけど。

 ・・・大人の、今のわたしは人間関係を学習するスキルが低い。今わたしは安全な場所で生きているし、安全な人々と固定された関係性を作っている。しかし学習しそびれた情緒的な交流や安全な共感性の構築については、わたしは今も、どうにも手の付けようのない感じがあり続けている。

 わたしは諦念感覚を持っているが、それでも諦めずに生きていこうと思っている。 

|  養護施設にいる間の問題 | 20時29分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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