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ただ、やはり誰もいない現実からも逃げられないのが自分の課題

養護施設にいる間の問題

 【ひとり】生きる事

 今までは、いくら捨てられた自分としてスタート地点に立ち、本当の意味で一人生きようとしても「泣く泣く施設へ預けた」とか「子を思わない親はいない」という言葉に責められてきた。心の中では全く実感のない親、そして、施設で全部育った事の理由を一方的に「受け入れなさい」と言われてきた。

 今、これから先は【ひとり】生きざるを得なかった部分と、家庭を持った事で【愛着を築く関係】を持たねばならない事の間隙【かんげき】で、がんばって考える必要があると思っている。


 確かに今は結婚したので一人ではないと言われるが、わたしはいつもどうしても一人の心からは逃れられない気がするのだ。

 結婚したから、誰か出会いがあったから、もう一人ではないよと言われるままでは、わたしは何か納得できないものの為に、生きていられないのではないかと感じる時がある。

 捨てられたゴミのゆくえ

 わたしは、捨てられたゴミの行方を誰が気にする?と常に誰かから問われ続けている気がする。わたしは答えを持っていない、というか、捨てられたゴミとしてのわたしを見ながら誰かがそう言うイメージに取り付かれているのだろう。

 わたしは世間の一般的な意見に同調して「捨てられていない」と思い込めない心理的常態にある。誰かわからない者たちによって「捨てられている立場」をこそ、揶揄されて、晒し、楽しまれ・・・というイメージがずっと消えない。

 その誰かわからない者は、自分のひどい虐待の傷から逃げる為に、捨てられているもっと彼らよりも価値のなさそうに見える者を「見つけ」て、ターゲットに選ぶ事があると思う。

 彼らは傷を持っている。傷を曝け出す相手を見出せず困っているように見える・・・。

 捨てられた者としてのアイデンティティ
 
 わたしは捨てられた事と捨てられた者としての扱いを体験している気がする。相対的に傷を持つ家庭の子の目にも、明らかに捨てられている者として、家庭で傷つけられた子の表現対象とされたのではないかと一方的に感じている為、家庭で傷ついた子に対する労わりの気持ちが生まれにくい。

 わたしは小さな頃から、アイディンティティを持つさなか、捨てられた者としての、家庭虐待を受けた人々による、ロールプレイングゲームの場で生きていると感じていたのだろうか。

 でも実際に何かあったかどうかは判らないの。ただ、わたしは自分という容器に色んな子の吐き出しの結果として、いっぱい汚物が詰まってる感じはする・・・。

 わたしにとっては、捨てられた者の生き方をどうしたらいいのかが、わたしの課題だとしか言えない。あまりに無愛着ではあるが・・・。

 わたしは虐待環境にいたのだと頭では判るが、実感的ではない。何故なら、特別な事が何か、非日常な事が何かあったか判らないから。

 穏やかで何もない家庭の日々、今の方がわたしとしては非日常・・・。わたしも表現できないのかもしれない・・・家庭という空間では。
 
 今わたしは整理すべきだけど、心がせまい。 
 虐待はいけない、施設へ保護されて欲しいと思うが同時に施設内がお狩場になるのが心苦しい。

 家庭の子は捨てられている気分を持つが・・・

 家庭の子は虐待をされていたので無力感と親から捨てられている捨てられ感を持つが、養護施設には実際に捨てられている遺棄児童、養育放棄児童がいる為、本当に捨てられているとはどういう事かがわかり、自分は捨てられているわけじゃなかったと納得して施設を出ていったように見えた。
 
 家庭の子にとって一番恐ろしい事は捨てられる事なのかもしれない・・・。

 とわたしは思った。


|  養護施設にいる間の問題 | 08時39分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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