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安全基地:子ども達には自分の基点となる場所を得てほしい

養護施設にいる間の問題

 母港と冒険

 前回の記事は初夢がらみで何故か話が極端になってしまって反省・・・。ほんとはこっちの記事を書きたかったのだけど、朝から沸々してたのでご容赦を・・・。

 わたしはいつも同じ場所に居られない気分になり易い。人は旅の中にある自分を自分らしいと思い続けるかぎり、1つの場所に腰を落ち着く事はできない。寄港地は数あれど、母港を持たない状況では旅は旅とならず、ただの放浪になってしまう。

 よく発達障害関係の本などを読むと愛着の礎として、安全基地という考えが出てくる。子どもは養育者の守りを安全基地として、少しずつ自分の冒険エリアを広げるという考え。怖くなれば背後に基地があるので、安心して冒険する事ができるのだそうだ。

 そうして少しずつ冒険の範囲を広げ、いつしか、子どもの心には消えない対象者として養育者が定着し、遠く離れていてもその人物が心に住むようになる。

 誰か一人から思われた体験があれば

 たぶん「どんな親でもたった一人の親」という言葉が当然のように語られる背景には、まず前提として「固定された親子の愛着関係が構築された子ども」の存在が当然あるべき子どもの像として定着しているからだろう。

 でも生まれながらに施設しか知らない子、親元から離れて集団生活をしていた子には「固定された親をあらわす=たった一人の親」という認識はない。
 
 安全基地を生まれながらに得られなかった子ども達は、物心ついた時にはすでに流浪の旅の途上にある。

 本来なら五感の固まりであった筈の子どもは、同じ感覚を常に提供してくれる固定された養育者でなくては、人を一般化してしまい個別化できなくなるのだと知った。

 わたしの共感性のなさと無愛着と旅の中に自分を探す事も、これらの事が関係しているのだと思う。いちおう生誕地はあるが、そこはふるさとではないし、育った場所もふるさとではない。

 施設には自分が居た痕跡は何処にもないし、職員も移り変わり、自分が子どもであった証拠がこの世界のどこにもない。それはおそらく家庭で育った人には想像しがたい事だろう。でも事実、そのような子ども達がいるし、そのような子ども達独特の感性というものがある。

 年齢が高くなるに従い、流浪人の性癖は固定化されてしまうので、ぜひとも誰か一人から思われてほしいと思っている。

 帰る場所の無い人間の家庭作りほど実感のない作業はないのだから、大人になって苦労してほしくないとつくづく思う。

 

|  養護施設にいる間の問題 | 15時24分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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