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未定義:「可愛げというこのよく分からないものの正体」について

愛着障害・無愛着

 ☆本日の気持ち:三食屋根ありの生活と言えども施設生活に子どもの可愛げは不要であった。むしろ元被措置児の領分を越える行動を取った事が無いので、今もやり方がわからない、定義も。

 「施設」では使う事のないスキル

 施設の子が全て無愛着なわけではないとよく言われるが、施設の子には共通の【あるいは似通った】態度や言葉があるとわたし個人としては強く感じている・・・。家庭から来た子たちも施設生活に於いて不要な態度はことごとくそぎ落とされていく印象があった。施設に入所すれば不登校や引きこもりやニートの問題も解決すると言っていた施設職員がいたが、同時に、何故か性的な問題を持つ子については施設入所する事でさらに過激に煽られてる感はあった。

 ・・・

 ただ、施設の子にも、その措置理由ごとに愛着障害のグラデーションがあるので、一言で愛着障害といっても、他人を試すような愛着障害から全く他人との接点を持たずにいる愛着障害【無愛着・反愛着】があるので、子どもの態度について様々な形態がある事を知らない人はその多様な発揮の仕方にとても困惑すると思う。



 「可愛げ」という要素

 わたしほど、子ども時代から大人時代に至るまで「可愛くない」「可愛げがない」と評されてきた人間はいないのではないか?と訝しがるほど、可愛くないという言葉を常々受けてきた。

 だから大人になり気が楽になれた理由の一つに、概念的な大人ではなく身体も大人になれば可愛げの有無に関わらず生きていけるという点にあった。

 しかし困った事に、今も【継続して】わたしは大人であるにも関わらず、可愛くない、可愛げがないと言われ続けている。子どもの頃から漠然と、別に可愛げが無くても困る事はないと思ってきたが、しかし人間社会は愛着を基礎として社会に出てきた大人が多いので、成人しても「可愛げ」について考え続けなくちゃいけないようだ。

 人間関係の潤滑剤として?

 問題行動を起こさない、反社会的な行動を起こさない、隔たりすぎたイデオロギーを持っていない、などなど、何ら現代の社会に対して毒にもクスリにもならない存在無きわたしだという自負がある。
 
 しかし、それでも何がしかの不快感を周囲の人間に撒き散らしているとしたら非常に申し訳ない事である。申し訳ないと表現するのは申し開きが出来ないという意味であり、開き直っているわけではないので、念の為。

 それは「女だから」必要なのか、子どもだから必要なのか

 夫などは「これでもっと愛嬌があれば」「可愛げがないよなあ」「女の人はそれを周囲から当然のごとく求められる」と言うが、わたしは出来る限り【施設全部育ちにしては】家事など、家の事をしているつもりであるし、特別困らせるような事はしていない。

 しかし「可愛げがない」と言われ続けてしまうので、非常に困っている。確かに世間には女・子どもという括られ方をする表現もある。恐らくその可愛げについては、昔、庇護下にある立場のものが暗に求められていた旧態依然の、好まれる態度なのだろう。

 まあ、働いていた会社でも「可愛げがない」と言われてので、女性だからこのような事を求められてしまうのだと、個人的に憤慨した事はあるが・・・。

 庇護下の者の領分

 わたしは養護施設で全部育つ中できっとそれらを意識せずに野放図に生きてきたのだろうと思う。世話をされる、保護される、守られる、労わられる、愛される、慈しまれる、などなど「~られる」という受身で表現するような出来事を経ずに成長してきたのだと思う。

 今、恐らく一般家庭で親の保護と庇護を受けてきた夫は、親に対して可愛げのある子どもだったのであろうし、庇護の下にある以上、子どもは親に対して愛着と愛着を示す態度としての可愛げ?をふりまいてきたのだろう。親も子を育てるごほうびのような、子どもの愛着と可愛げを哺乳類的に欲し、互いに、それを交換してきたのだろう。

 だから、彼はわたしのような態度を取る人間を見た事が無く、混乱してしまうのだろうと彼の心理をある程度想像している。
 
 収容施設で「可愛げ」を求める家庭育ち職員の矛盾

 わたしは施設時代に、収容所の囚人である誰か一人が、看守にこっそり愛着をしめすような態度を取るのは集団生活に対する暴挙だとも感じる心の癖を持っていたらしい。又、それだけではなく、愛着を示すような生育環境ではないのが施設だと思っている。

 収容所で三食屋根有りの場所に収容されているからといって、看守が囚人に対して可愛げや愛着を求める事は無いと感じていたので、施設で職員が可愛げのない児童に対して、可愛くないと怒りを向けるのは筋違いだと【大人の今では】感じている。

 しかし子どもだったので、可愛げがどんなものなのか知らず言われるままだった。

 家庭は収容所ではないし、収容所にしてはいけない

 そういうわけでわたしは家庭と収容施設である児童養護施設の問題は分けて考えた方がいいと思い自分なりに整理してきた。

 数え切れないほどの集団の子ども達という圧倒的な現実を体験した子らは、1つの家庭でねちねちとその子だけ虐待されてしまった家庭の子とは、全く別物の間違った用い方だから、機能不全家庭の人が、その人自身の家庭を収容所と表現したのでは、その人は自分の気持ちを正しく語れないのではないかと、人事ながら昔心配した事がある。

 わたしもまた然り・・・。

 あの収容所の生活を、大きな家庭・家族と表現したら、整理の方向を間違えてしまうと思った。
 

| └ 愛着障害・無愛着 | 04時09分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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