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人にもモノにも空間にも時間にも愛着を持てない無愛着感覚


 会社に居た頃に「子どもの頃のお願い」についていくつかランチ友と会話をした事があった。家庭で育った彼女らは、みんな「○○のお人形」「○○の絵本」などなど「物」を欲しがっていた事が判り、けっこうズシンときた。
 
 わたしも、会話を当然振られる。
 
 でも、モノを一生懸命考えても、モノが出てこなかった。別にモノに埋もれて生きてきたわけじゃない。だから「欲しかったモノを考えている子ども時代の自分」が記憶に浮かんで来ない。とことん冷や汗ダラダラだった。

 その頃、わたしは会社で発想がユニークな人として、帰国子女に通じるようなセンスを持った人という事でそれはそれで一目置かれていた。人付き合いが良くなくても、ユニークな人なのでその辺はなんとか不器用なりに嫌悪される事は防止できた。

 だが、この会話にはものすごく困った。

 欲しいもの・・・ほしいもの、ホシイ物・・・・・。

 そのまま、何となくボンヤリと口をついて出たのは、

 「欲しいのは、たとえばお人形とかではなく、そのお人形を買ってくれるお父さんが欲しい・・・かも?」」
 
 だった。

 するとかなりすばやい反応が返ってきた。

 「ちがうのよ、物を買ってくれるパパとかじゃなくって、欲しい物そのものを答えてよね(爆笑)」

 でもこっちも意固地になり、

 「物を買ってくれる人がいなきゃ物が手に入らないよ」と切り返した。
 
 そういうわけで、前提条件がなにやらちがう・・・。すでにわたしから見ると親が居て当たり前の人は、大人そのもを欲しいとは望まない。でも親が居ない人は、物を欲しがる前に、大人を必要とする。でも誰も居ないのが当たり前なので、こういう会話の流れになった時に自分の答えと相手の反応にかなり戸惑う。誰かを探す所から出発するのだ、自分の場合は・・・。

 しかも、誰からのモノか分からないのではなく、愛着を持った相手が自分の為に用意してくれたモノでなくては、モノへの気持ちを心に持てない。つまり、モノを通してその相手の自分への気持ちを確認する作業を行う必要があるように思える。

 施設に送られてくる、差出人の分からない古着にかこまれ、食べきれないケーキを食べ、大量の何かにおぼれながらも、そこに誰の顔も思い浮かびはしない。容姿も年齢も性別も住んでいる場所も、考え方も何もかも知らない人たち。

 それでも「全国津々浦々の優しいお方たち」へ宛てもなく感謝するのが通常になっていて、顔が見えない相手へ漠然とお礼を言うのなど、当たり前の感覚になっていて、モノそれ自体についても、全然心に残っていない。

 施設の子は大抵の場合、モノを大事にできないと言われる。今、主婦でいい大人のわたしは、理由も分からないのに失くす、壊す、食器などもペア食器がペアで残ったためしがない、どっちか必ず割れてしまう。靴下も両方揃っている事なんてありえない、いつの間にか片方なくす。

 そして一緒にそれを探す大人もいない、失くした事をしかる大人もいない。だから子どもは無自覚に色んなものを粗野に扱うようになる。

 そういうわけで、おそらく愛着は、一度身に付くと色んなものへ応用できるのだと思う、その反面、無愛着であれば、それもまた負の形で応用してしまう。一つの事柄に愛着を持てないという事は、自分を取り巻く全ての事象に対してさえも、何の気持ちもわかないのだろう。

 だから、その大事なモノを贈ってくれる大事な誰かに出会える事は、とても大事な事だと思う。

|  養護施設を出てからの問題 | 10時02分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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