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子どもは自分を想う大人の下で育てられてこそ子どもとして生きられる

スタンス

 子どもの日を祝う不思議の国

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 施設という世界観から望むこの国は不思議に満ち溢れている。体験した事のない祭りを楽しみ、知らない価値基準の下で記念日を設定し、未体験のライフイベントが脇を通り過ぎて行く・・・。

 「子ども」という存在が不確定なのに、子どもの定義を飛び越えて大人とは何?自立とは何?と宛てもない答えを探している自分にとって、子どもの日が何の日なのか今も感覚的には分からない。


 捨てられた子どもにとっては子どもの日が何を祝うものか分からないが、帰属すべき世界から祝福され・認知された子どもにとっては特別な祝いの日なのだと思う。

 は数年前に『子どもの日は単に子どもだけの日ではなく、子どもを持つ親も、自分の子ども時代の子どもの日を思い出し、親に感謝できる日』だと言っていた。

 確かにその頃は今ほどわたしも過去の整理をしていなかったので、彼の言葉に妙にイライラとさせられていたが、それは、子どもというだけで大事に育てられる事が当たり前と言わんばかりの彼の感覚に不安を覚えていたのだと知った。

 児童と子どものイメージの違い

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 の言うように、家庭の子どもは子ども時代に子どもの定義とは何?などと考えずに生きているらしい。施設の子も施設児童の時代に児童の義務とは何?といちいち考えずに条件反射で生きている。でも児童は子どもとは微妙に異なる・・・。

 そんな施設世界に家庭から入所してくる子ども達が、子どもの権利意識を引っさげてやってくる。彼らは何しろ、本来なら愛され慈しまれるべき存在であるにも関わらず、家庭で虐待を受けたので施設へ保護されたという経過を辿って来ているので、強い怒りと権利意識を持っている。【←施設へ保護される体験を通して安全に守られて育つ権利を意識させられるのか?】

 一方、施設しか知らない児童は大勢の児童というカテゴリでしか生きられないので、そんな家庭措置の子のあまりな怒りの嵐になす術も無く、家庭から来た子ども達の吐き出しに身を縮め、嵐の一波が過ぎてゆくのをじっと耐えていたのだ。

 施設児童は「児童というカテゴリ」の中で、自分が子どもである事に気づく機会を持てずに大人になってしまったのだと思う。

 が興味深い事を言っていた。彼は学校では「児童」と感じていたが【 ←子どもとしての意識を持てない公の児童】、学校から家に帰れば「子どもに戻れる」と思っていたそうだ。

 たとえいじめっ子がいても、家の中までは追って来なかったし、自分の親が退治してくれると思うから「安心して子どもに戻れる」と思ったそうだ。

 しかしの話は実話とは思えない程あまりに遠い話なので、聞いてるうちに時々寝てしまう。もちろん書いていてもとても眠くなる・・・。

 ただ・・・

 子どもは誰かの子どもになれてこそ子どもになれるし、子どもは人間として育てられてこそ人間の子どもになれると、彼の話を聞く事で理解できつつある。
 
 彼のような一般家庭で育った人の意見を聞く事でさらに、親が育てられない子ども達に里親家庭をと願う気持ちが強くなるばかり。これからも自分の出来る発信をしていこうと思う。

| └ スタンス | 08時41分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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