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「親から虐待を受けるくらいなら施設の方がマシ」なんて言葉を聞くたびに

養護施設を出てからの問題

 かと言って虐待受けた方がマシとも思わない

 わたしは弱者である子どもが「不当に扱われたり」「間違って扱われたりする事」を捨てられるよりはマシと言い返した事はなかった。家庭虐待の子から「お前に虐待の何が分かるんだよ」と言われたとしても、分からないものは分からないので答えの返しようもない。

 あの頃の職員達は、何故わたしに「家庭で虐待を受ける事の悲惨さ」をわたしに、それも執拗に言い続けたのか、今なら分かる気がする。

 わたしには彼らから見て何の傷も無いので、おそらく我を忘れるほど(のほほんと生きる子へ)の怒りを吐き出す事を止められなかったのだろう。わたし達捨てられた子ども達は、被虐待児や元被虐待児の職員の単なるゴミ箱だったとしても、職員や家庭から来た子たちは怒りの捌け口が欲しかったように見えた。

 彼らの中の誰かは、わたしに対して「お前のような平和な奴を見てると家庭虐待の子の悲惨さが際立つ」と言っていた。わたしは、彼らがわたしを悲しませたり苦しめたり傷つけたりしたかったのかもしれないが、捨てられた人間は痛痒というものを知らないので、彼らの期待通りに苦しんだり傷ついたりする事はなかった。


 捨てられた事と傷つきの無さ

 わたしの問題は「捨てられた事」だけれど、本当の問題は「今も捨てられている事」なのだと感じている。国から?世界から?いわゆる血縁親から?虐待された子は虐待親との修復という道が残されているが、捨てられた子は修復すべき相手が人生の最初から居た事がない。捨てられた子たちは「傷つき感覚」を知らない為、痛んだり苦しんだりできないのかもしれない・・・。

 所謂親のない子はいません

 養護施設サイドの「いわゆる親の無い子はいません」という言葉に触れると、実質的には親から捨てられた状態の子たちの存在を無きものにする事だと感じ、いたたまれなくなる事が多かった。子ども時代の全てを施設養護で育ち切るだけでなく、居ない子ども達とされている。

 そして乳児院・施設全部育ちの子たちの問題は「いわゆる孤児はいません」という言葉の影に隠されてしまっていると感じていた。

 わたしはネットでも「捨てられた事」を語るが虐待の話をメインに語らない為、随分閲覧者がイライラするのを眺め続けてきた気がする・・・観察というほどではないけれど。彼らはいずれも家庭虐待の傷を持つ者ばかりなので、わたしがいつ、施設での虐待の話をするのか固唾を呑んで見守るのを心のどこかで意識していた。

 でも残念ながら、幾つかの固定された断片的記憶しかなくて新しいネタはなかった。わたしはストーリーテラーじゃない。わたしは物語を紡ぐ人ではないので、このブログに虐待ストーリーを期待して来る人がいてもそれに答える事はできなかった。

 声無き声


 それよりもわたしが常に心にあり続けるのは「いわゆる親の無い子はいません」という、居ない事にされている子ども達の事だ。捨てられた子たちが捨てられた後でどのように扱われても、虐待にも体罰にもなり得ないと感じる心の癖があった。その心の癖がある為に、時にはMaria、そしてWolfから行き過ぎたテキスト表現を注意される事も多かった。

 わたし達に元被虐待児の職員は「お前らがどうなろうと困る奴はいない」といい続けた。愛着障害の虞犯少年達は常に親を困らせてやろうとしていたので、職員のこの言葉のベクトルは捨てられた子ども達へ向けられたものだと解釈していた。

 わたしは、捨てられた子が収容されている施設で圧倒的な暴力に遭う子が「それを虐待だと思うためには、最低限、社会や何かから捨てられていない事が条件だった」と感じていた。だから捨てられたゴミとしてのカテゴリに入るわたしは傷つきというものがよくわからなかった。

 未来に対する遺棄

 わたしは乳児院・児童養護施設全部育ちの子ども達は、その未来も捨てられていると感じている。のよりどころとなる里親委託されず、収容所で留め置かれ、さらに措置期限が切れれば自己責任と自立の名の下、施設から放出される。あげくの果ては社会で失敗した子ども達をを作れないとばかりに、子ども自身に自立できない問題があるとばかりに責め立てる。

 未来がみえない、一生涯を通したライフプランが立てられない、人が年取り死ぬ事もわからない、捨てられた子は子を産みはぐくむ意味を理解できない・・・愛着が分からない、ぬくもりって何?

 乳児院・児童養護施設で育ち切る事は、そのまま、その子どもの未来も遺棄されているようなものだ。捨てられた子と虐待された子の問題は、そもそも出発点から、その子各々に必要な事柄が違う。

 未来を想像できる世界を

 ある日、捨てられた子どもでも、里親家庭で育つうちに、なんとなく未来が想像できるようになるんじゃないかな?と思うようになった。

 そのきっかけはWolfの存在・・・普段は記事に書かないんだけど、彼のわたしに対する一貫した眼差し?を通して、何故かわたしも一貫した人間として存在できる気がしている。

 同じ人が長い間自分のそばにいるという体験を通して、わたしは自分がまるで、あたかも生きている人間のように感じる時があり、びっくりしている・・・。

 でも、そのような固定された相手が居ることを前提として思考しなくては、自分の居る未来なんて想像できないとも思うようになった。

 それ以前に、施設で、その場限りの営業スマイルで生きていると、頭も心も何もかもが、今だけウケが良けりゃ事足りる人生になっていくなあと思うようになった。
 
 未来を想像できる人生のベース作りの為には、まずは固定された相手が必要・・・家庭で育った人たちにこれがいかに大事が通じなくて、結構苦労している。施設育ちの施設職員などは論外。

 一方、いくら施設全部育ちの自分が言葉を駆使してを語っても、家庭で育った人の感覚にはとうてい適わない気がする。適わないからこそ、家庭で育つ事がいかに大事な事なのか分かる気がする。

|  養護施設を出てからの問題 | 07時46分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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