Firedragon戦記/絆なき者の記録

元・児童養護施設内マイノリティの自己主張ブログ

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読書感想文:「施設の子どもたち -集団養護の理論と実際-」を読んだ2

養護施設の問題
 
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読書感想文:「施設の子どもたち -集団養護の理論と実際-」を読んだ

引用文



page131

施設集団はややもすると、問題を起こした児童を疎外したり、非難したりする傾向があるが、そのことは児童を利己的な存在に追いやるとともに自分が施設に入所していることを否定的に捉えはじめ、ますます集団意識がめばえなくなってしまう結果となる。そういった結果を生み出さないためにも、養護の方法に、個と集団との統一的なものを打ちこまれなければならない。





page136

 しかし、イスラエルのキブツにおいては、乳幼児が母親からひき離されて専門の「母親代理者」によって集団養育されているが「この複数のマザーリングは、幼児期の発達様式にいくらかの小さな一時的困難と影響を与えるにも関わらず、人格発達と性格構造にあたる有害な影響を与えない」とラビン(A,L,Rabin)が報告している。

 すなわち、このことはジョン・ボウルビーやロレッタ・ベンダーの述べている「幼児期において愛情ある人と同一化過程を通して価値体系を学習し、自らの中に取り入れ、人格を形成する」という理論に対して、キブツでは ”集団への同一化過程”を通して、その価値体系を取り入れさせることに成功している。





p137

キブツの子どもは、仲間グループによって発達させられた価値を取り入れる。

 もしそうだとしたら、彼は特に安全な情緒的環境の中で成長することになる。彼の行動を外部的にコントロールする仲間たちにとり巻かれているのだが、このコントロールは彼の内面化された優勢な超自我の力を調和する。

 したがって、この集団文化は阻害された子どものための集団心理療法に類似した場面を生起させる」

 もちろん、キブツと施設とを同じ尺度で捉えることは許されないであろうが、”母親への同一化過程”を施設における集団を優位に活用させることにより、”集団への同一化過程”へと移行せしめることは不可能ではないと考えられる。

 
 

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|  養護施設にいる間の問題 | 23:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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読書感想文:「施設の子どもたち -集団養護の理論と実際-」を読んだ

読書感想文

 

 MariaとWolfから立て続けに本を借りて読みまくっている最近の自分だ。一時も本を手放さないので、さすがに夫から言われた。

 「家庭で主婦をやるのに、大学生や若手の研究者並みに発達心理や脳の勉強しないと家庭で主婦ができないとは・・・」と。一度本を読み出すと止まらないので多少怒りも混じってるかも【汗】。ともかくオール家庭育ちの夫は、わたしが愛着を手に入れる為の困難がようやく飲み込めてきたようだ。
 
 この本では施設にあって、家庭にないものは集団だと言っている。養護施設ならではの集団の特異性・・・いや、特性を最大限利用して、子ども同士、仲間同士で育ち合う素晴らしい環境を作者なりに提言している。
 
 だから少しも「養護施設は家庭だ」とは言っていない。むしろ施設は施設だとはっきり言明している。この点についてはわたしも腑に落ちた。

 たとえば



p25 本文引用

 施設はあくまで施設であり家庭にはなりえない存在なのである。又、彼らの大いなる誤解は「家庭に代わる」という言葉に惑わされ、ただ家族的構成の面で近づければよいとの表面的な捉え方が為され、「家庭に代わる環境」という事が前述したように「親に代わって家庭の果たさねばならない機能を果たすこと」なのだと考えないし、また考えたとしても、その機能が家族的体制ではないと果たせないと捉えられていることにある。

 養護児童にとって正常な家庭環境が望ましいのであれば、養護施設は不要である。

 養護施設があり、そこで児童を養護するのは、その特質である ”集団性”を利用して家庭の持つ保護的、教育的機能を果たし、かつ家庭では与えることのできない機能や効果が期待できるからに他ならない。


 
 という展開の方がわたしは体感的に理解しやすかったのだ。まさにそのような世界で強制的に生活させられていたのだし。もっと早く読んでおけばよかった。

 じゃあ、時々ブログで見かける施設職員たちは、全てが集団養護論容認派ってわけじゃないんだなという事も知った。派閥でもあるのかもしれない。「施設は大きな家族」などと言ってる人の事だけど・・・わたしにとっては、どっちもどっち。

 ともかく引用すればキリがないが、わたしは非常にこの本を興味深く読んだ。引用部分だけでも十分興味深く感じる。まだ引用したい部分があるので、また日を改めて。 もっとすごい事を言ってた部分を探してるんだけど・・・【本ってキーワード検索できないから大変】

 

| └ 読書中 → 完読 | 15:42 | comments:2 | trackbacks:1 | TOP↑

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「私一人を見てくれる人の必要性に気付けない集団主義」という感覚2

養護施設に居る間の問題

 追記

 施設の子ども達である自分を誇りに思う事と不思議な高揚感




 
 

  わたしは、集団の中の溶けた物質のように集団化していたが集団に愛着を持っていたのでも帰属意識を持っていたのでもない。ただ集団の溶けた物質のように生きていただけだ。その集団に誇りを持っていたわけでもなく、みんなでオウム返しに唱えていただけ。



 2つの引用文ののうち前者は、今では自分が育った筈の施設に何の愛着もない事に気付いたのと、帰属意識というものに対して、今思えば子ども達みんなで唱えていた言葉の数々は、あの全員で妙に高揚していた気分と連動していた事に気付いたから。

 「世間の子ども達に負けて無いぞ」
 「施設の子ども達には誇りがあるぞ」

 と思わしめる対外的なイベントを何度も重ねた時などの心情のカケラなのだと気付いた。普段の集団生活の中でのありふれた発意高揚が今も根深く自分の心理を刺激していると感じている。もう集団は何処にもないのに・・・。

 今思うと親から捨てられ施設で集団生活をしている事を誇りとする何の根拠もなく、さらに、実は「恵まれない施設の子ども達に勝手にパワーを貰った人々」を前にして、まるで道化師のように様々なイベントに呼ばれ、記者が来て、沢山の何かを押し付けられ、奪われていっただけであったと感じている。今は漠然と搾取されていた事に気付きつつある・・・。



 だから今でも、耳馴染んだ「施設で育って誇りに思う」と言い切る人を見ると、何故誇りに思わねばならなかったんだろう?と、自分が過去に同じ事を唱えていた事を思い出す・・・。



 後者の引用文は、施設で育っても家庭の子には負けない根性がある、誰もいないかもしれないが【家庭の子にはいる事に気付き始めた頃】自分は親のない事を言い訳にせずに生きてきた。

 と見当違いの自負をしていた自分の集団生活万歳ぶりに気付き、何故、誰に、自分が施設を出て今も一人で生きねばならない事を誇りに思わねばならないのか、施設はわたしを育てた担当じゃなかったとはっきり言っているのに、何故わたしは施設で育つ事を誇りにするのか。

 と・・・自分の心情ながら理解する事に困難を覚えたから。

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|  養護施設にいる間の問題 | 03:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「私一人を見てくれる人の必要性に気付けない集団主義」という感覚

養護施設にいる間の問題;集団の中の溶けている物質感

関連記事: 「私一人を見てくれる人はいなかった」という言葉

 子育てを通しての問題提起





 実は「私一人を見てくれる人はいなかった」という言葉を前にジッと考え込んでいる。その言葉の持つ響き、その新鮮さに・・・。そして少しエゴイストに感じられるような否定的な匂いに・・・。

 「愛されたいを拒絶される子どもたち」の登場人物で、乳児院・養護施設で育ち切った、子どもをネグレクトしたその母親・美由紀の言葉、一般の家庭の人ならば言えるのかもしれないが、施設で無自覚に育つと、そのような育ちの環境について言語化できないものだ。【自分の場合とくに】

 「誰も私を見てくれる人がいない養護施設の育ちの環境」に、よく気付いたものだと感じている。やはり子育てを通して彼女は、様々な問題に否応無く気付かされたのだろう。子どもたちの愛着が自分に向かう事に恐れを抱く事や、子どもたちの求めに応じられない自分とのギャップなど・・・。

 

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|  養護施設にいる間の問題 | 23:12 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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